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クルアーンの始めであるため、「ファーティハ・アル=キターブ(書物の始まり)」「クルアーンの母」と名付けられる。クルアーンの基礎をなすため「基礎」とも呼ばれる。アッラーの玉座の下にある宝から下された章であるため「宝の章」、礼拝などがこの章だけで成立することから「十分なもの」、「それはあらゆる病に対する癒しである」というハディースから「癒し」、7節からなることから「7つの繰り返される節」とも呼ばれる。また、「光」「まじない」「称賛の章」「感謝の章」「祈り」などの名もある。次の聖なるハディースから「礼拝の章」とも言われる。
「われは礼拝をわれとわがしもべの間で二つに分けた。わがしもべには彼の求めるものが与えられる。もし、彼が『称賛はアッラーに属す、諸世界の主に』と言えば、アッラーは『わがしもべがわれを賛美した』と仰せられる。しもべが『慈悲あまねく、慈悲深き御方』と言えば、アッラーは『わがしもべがわれを称賛した』と仰せられる。しもべが『宗教の日の主宰者』と言えば、アッラーは『わがしもべがわれの偉大さを称えた』と仰せられる(あるいはまた、『わがしもべがわれに服した』と仰せられる)。しもべが『あなたにこそ仕え、あなたにこそ助けを求める』と言えば、アッラーは『これはわれとわがしもべの間の取り交わしであり、わがしもべには彼の求めたものが与えられる』と仰せられる。しもべが『われらを真っすぐな道に導き給え。あなたが恵みを垂れた者たち、御怒りを被らず、迷ってもいない者たちの道に』と言うと、アッラーは『これはわがしもべのもの。わがしもべには彼の求めるものがある』と仰せられる」。
アル=ティービー(al-Husain bn Muhammad、ヒジュラ暦743年/西暦1342年没)によると、この章は宗教の基礎をなす4つの知識を含んでいる。
第1は、宗教の根幹、すなわち神学であり、アッラーとその特徴についての知識(『称賛はアッラーに属す、諸世界の主に。慈悲あまねく、慈悲深き御方』)、預言者についての知識(『あなたが恵みを垂れ給うた者たち』)、復活についての知識である(『宗教の日の主宰者』)。
第2は、宗教の枝葉に関する知識、すなわち法学であり(『あなたにこそわれらは仕え』)、その最も重要なものはイバーダート(崇拝行為)である。
第3は、人間のあるべき在り方と永遠の生に至る道に関する知識(『われらを真っすぐな道に導き給え』)、すなわち倫理学である。
第4は、過去の民の物語と彼らが至った幸福と不幸に関する知識(『あなたが恵みを垂れ給うた』)、すなわち歴史伝承学である。
マッカで下されたというのが大多数の見解である。ムジャーヒドはマディーナ説を取る。マッカで礼拝が義務となった時と、マディーナでキブラ(礼拝の方角)が変更された時と2度啓示されたとも言われる。しかし、『われらはおまえに7つの繰り返しの節と大いなるクルアーンを与えた』(第15章[アル=ヒジュル]87節)とあり、この章がマッカ啓示であることはクルアーンとスンナに典拠があるから、マッカで啓示されたとする方がより正しい。クルアーンの最初の啓示については見解が分かれ、第74章[アル=ムッダッスィル]であるとも、第96章『読め…』であるとも、第1章[アル=ファーティハ]であるとも言われる。
慈悲あまねく慈悲深きアッラーの御名において(1:1)
この句は誰でも知っているためか、アル=スユーティーもマハッリーも特に解説を加えていない。
バスマラ(「慈悲あまねく慈悲深きアッラーの御名において(ビスミッラー…)」)を含めて7節で、7節目は『あなたが恵みを垂れ給うた道に…』である。
「アッラーの御使いはアル=ファーティハを7節と数え、『ビスミッラー…』をその1節と数えられた」(アル=ブハーリーの伝える伝承)。
預言者は言われた、「おまえたちが『称賛はアッラーに属す』を読む時には『慈悲あまねく慈悲深きアッラーの御名において』を読め。それは『クルアーンの母』『啓典の母』『アル=サブウ・アル=マサーニー(7つの繰り返される節)』であり、『慈悲あまねく慈悲深きアッラーの御名において』はその節の一つである」(アル=ダーラクトゥニー)。
バスマラを7節のうちに数えなければ、『御怒りを被らず…』から最後までが第7節となる(第2章巻頭の解説5頁参照)。
章の始めに「言え」という命令が省略されていると考えられる。そうであれば第1節−第4節と、第5節『あなたにこそわれらは仕え…』が整合し、共にしもべの言葉となるからである。
そうでなければ、第1節−第4節はアッラーが御自身を称える言葉で、第5節以降がしもべの言葉であるということになるが、「言え」が省略されたものと考えて、すべてがしもべの言葉であるとするほうがより修辞学的に美しい。
『ビスミッラー…』はアッラーによる誓いの表現であると考えられる。それぞれの章の始めに、この章でわれがおまえたちに述べたことは真理であり、そこに含まれる我が約束、恩恵、哀れみの全てをおまえたちに与え尽くそう、と誓い給うているのである。
アブー・マリーフによると、預言者の後ろに乗っていた者は言った。アッラーの御使いは言われた、「あなたが乗った動物が躓いた時に『悪魔が災いをもたらした』などと言ってはいけない。そうすれば悪魔は『わが力であれを倒した』と言い、家ほどの大きさに増長することになる。むしろ、『ビスミッラー』と言え。そうすれば蝿ほどの大きさにまで小さくさせる」。
イブン・マスウードは言った、「アッラーに19のザバーニヤ(火獄の番人)から救ってもらいたい者は『ビスミッラー…』を読め。アッラーはその一文字一文字をザバーニヤ一人一人に対する盾となし給うであろう」。なぜなら、『その上には十九がある』(第74章[アル=ムッダッスィル]30節)が示す火獄の看守天使の数と同数の文字からバスマラはなっているからである。
飲食、屠殺、性交、清め、船に乗る際をはじめ、あらゆる行いの最初にバスマラを唱えることが望ましい。『アッラーの御名が唱えられたものを食べよ』(第6章[家畜]118節)、『アッラーの御名と共にこれに乗れ。航行にも停泊にも』(第11章[フード]41節)。
「アッラーの御名において」とは、「アッラーのお助け、ご加護、祝福をもって私は始めます」という意味である、とも言われる。
称賛はアッラーに属す、諸世界の主に。(1:2)
『称賛はアッラーに属す』叙述文であるが、そこで意図されているのは、「至高なるアッラーはすべての被造物の賞賛を所有する権利がある、あるいは、彼らが賞賛するに値する御方である」とのアッラーに対する賛美である。
「アッラー」とは真に崇拝されるべき御方の固有名詞である。
アッラーは、「‘abada(崇拝、隷従する)」の意味の「’aliha」、あるいは「fazi‘a(畏怖する)」「sakana(立ちすくむ)」の意味の「’aliha」、あるいは「tahaiyara(驚愕する)」「dahasha(驚く)」「taraba(錯乱する)」の意味の「walaha」「ihtajaba(覆いが取れる)」「irtafa‘a(高みに現れる)」「istanāra(照らす)」の意味の「lāh」の派生語である、とも言われるが、その場合は要するに「ma‘būd(崇拝、隷従されるもの)」の意味のma’lūh、あるいは「mutahaiyaru fī-hi(驚愕されるもの)」の意味の「ma’lūh fī-hi」なのである。
『称賛はアッラーに属す』とは、アッラーのアッラー御自身に対する称賛が、あらゆる世界のいかなる者がアッラーを称えるよりも早くから存在していた、という意味である。
アッラー御自身の御自身に対する称賛は永遠の過去から存在し、完璧なものであるのに対し、被造物による称賛は不完全なものに過ぎない。それゆえアッラーの御使いは言われた、「私はあなたへの賛美を数え尽くすことはできない。あなたは御自身が自らを賛美なされたような御方である」。
『諸世界の主に』人間、ジン(幽精)、天使、動物ほかあらゆる被造物の王なる御方に。それらの全てが「世界」と呼ばれ、「人間の世界」「ジンの世界」等と言われる。
「諸世界(‘ālamīn)」が、理性的存在に対する男性名詞規則複数形所有格語尾の「ヤーゥ(y)」と「ヌーン(n)」の附加によって複数形にされているのは、「‘alam(世界)」の複数形が理性的存在をそれ以外のものに優先しているからである(監訳者注:アラビア語では男性名詞規則複数形が用いられるのは理性的存在者のみで、「世界(‘ālam)」の複数形は通常は「‘awālim」)。
「世界(‘ālam)」の語は、同語根(‘lm)の名詞「印(‘alāma)」に由来する。なぜならば世界は、己の創造主を示す印だからである。
「世界」のここでの意味は「人間」であるとも言われる。というのは、人間もまた「大宇宙」の中にあるのと同じ様々な物質や性質を備えているので、宇宙の中でアッラーが創造された様々なものによって創造主が知られるように、人間の一人一人がそれによって創造主が知られる一つの世界(小宇宙)だからである。それゆえ世界と人間は同一視されており、至高なるアッラーも以下のように仰せられているのである、『そして地上には敬虔な者たちへのさまざまな印がある。そしておまえたちのうちにも。それでもおまえたちは見ようとしないのか』(第51章[撒き散らすもの]20−21節)。
「主」の原義は、「主人」「所有者」「確固たる者」「僕として仕えられる者」「改良者」である。
慈悲あまねく、慈悲深き御方。(1:3)
つまり、慈悲の持ち主。「慈悲」とは、良き物をそれに相応しい者が与えられることを望むことである。
「慈悲あまねき御方」とは、慈悲を多く持った御方のことで、慈悲とは恵みや善をなす心の優しさである。
『諸世界の主に』の後に『慈悲あまねく、慈悲深き御方』と続いているのは、『諸世界の主』という畏怖をかき立てる特徴に『慈悲あまねく…』という希望を持たせる表現を組み合わせたもので、それによって服従を促し、違反を禁じる助けとしている。アブー・フライラによると、アッラーの御使いは言われた、「もし信仰者がアッラーの許にある懲罰について知ったら、誰ひとり楽園に期待することはないでしょう。また、もし不信者がアッラーの許にある慈悲について知ったら、誰ひとり楽園に絶望することはないでしょう」。
宗教の日の王に。(1:4)
ハフス&アースィム版:宗教の日の主宰者に。(1:4)
『宗教』とは「報酬」のことで、『宗教の日』とは「復活の日」である。これが特記されているのは、その日には、主権の所有者が至高なるアッラー以外にないことが明白になるからである。その論拠は『今日、主権を有するのは誰であるか。唯一なる支配者たるアッラーに属す』(第40章[ガーフィル]16節)である。
(『王(malik)』を)『主宰者(mālik)』と読誦する場合、その意味は「復活の日の万事の主宰者」である。つまり、彼は「罪を赦される御方」と同じように、(最後の審判の日の到来以前から)常にその属性を有しておられるのであり、既知の属性として正しくそう呼ばれる(監訳者注:ハフス&アースィム読誦版クルアーンでは、『主宰者(mālik)』とする読誦法を採る)。
「宗教の日」とは審判の日、報いの日のことである。「主宰者」とは所有権を持った者のことを言う。『その日、誰も誰かに対し何も権限を持たない。万事はその日、アッラーに帰される』(第82章[裂ける]19節)。
あなたにこそわれらは仕え、あなたにこそ助けを求める。(1:5)
つまり、われらはタウヒード(アッラー唯一者のみを神とすること)などの崇拝行為によっても、崇拝その他の行為への助けを求めることにおいてもあなただけを目指す。
称賛すべきはアッラーであることへの言及、他のあらゆるものから際立たせるその偉大な諸属性の描写の後、『あなたにこそわれらは仕え…』と語りかけられる。そのような御業をなす御方よ、われらはあなただけに崇拝を捧げ、助けを求める、という意味である。それは、特異性をよりはっきり示し、また間接的な証拠から直接的な目撃への進展、不在から立会いへの転換を一層はっきりと示すためであり、それはちょうど聞き知っていたことが実際に目撃したものとなり、対象が目に見えるものとなり、不在であったものが現前したかのようである。
『…われらは仕え…われらは助けを求める』の代名詞(『われら』)は、読誦者、彼と共にいる守護天使、集団礼拝で共に祈る者、さらにはすべての唯一神崇拝者たちに対するもので、自分の崇拝行為を仲間の崇拝行為に加算し、自分の要求を仲間の要求と混ぜ合わせている。仲間の崇拝行為への祝福によって自分の行為が受け入れられ、彼らの要求へのバラカ(祝福)によって自分の要求が聞き届けられるかもしれないからである。礼拝を集団で行うことが定められているのもこのためである。
われらを真っすぐな道に導き給え、(1:6)
我らをそこに案内し給え。
われらへの導きを保ち、さらに増し加え給え。
アル=バイダーウィー(Al=Qādī Nāsir al=Dīn ’Abū Sa‘ad ‘Abd Allāh bn Muhammad bn Muhmmad al=Baidāwī、 685/1092 あるいは 691/1097年没。スンナ派の最も標準的なタフスィールAnwār al=Tanzīl wa Isrār al=Ta’wīlの著者)によれば、導きにはいろいろあり、導きから益を得るための理性や感性の付与、真実と虚偽、善と悪を区別する明証の配置、使徒の派遣と書の啓示、神秘の解き明かしなどである。
あなたが恵みを垂れ給うた者たち、御怒りを被らず、迷ってもいない者たちの道に。(1:7)
『あなたが恵みを垂れ給うた者たち』導きによって。
これは、『これらの者はアッラーが恵みを下し給うた預言者、誠実な信者、殉教者、義人たちと共にいる…』(第4章[女]69節)に示された者たちのことである。
『御怒りを被らず』それ(御怒りを被った者)はユダヤ教徒である。
『迷ってもいない…』それ(迷った者)はキリスト教徒である。『…もいない(wa lā)』は「wa gair(…でない)」のこと。
『…者たち』『あなたが恵みを下し給うた者たち』の言い替え。言い替えの目的は、導かれた者たちがユダヤ教徒でもキリスト教徒でもないことを知らせることにある。
『…の道に』『真っすぐな道に』の言い換え。
アッラーの御使いは言われた、「御怒りを被った者たちとはユダヤ教徒のことであり、迷った者たちとはキリスト教徒のことである」(イブン・ヒッバーンの伝えるハディース)。
「御怒りを被った者」とは「ビドア(宗教における新奇な付加物)に従った者」、「迷った者」とは「スンナの道から逸れた者」だとも言われる。
『あなたが恵みを垂れ給うた者たち』の言及の後に『御怒りを被らず…』とある益はなにか、と尋ねられたなら、こう答えよう。信仰は、(アッラーの慈悲と楽園への)希望と(アッラーの御怒りと獄火への)恐怖の双方が揃うことによってはじめて完全なものになる。アッラーの御使いは言われた、「信者の恐怖と希望を量ったならば、ちょうど釣り合うであろう」。『あなたが恵みを垂れ給うた者たち』との御言葉はこのうえのない希望を必然とし、『御怒りを被らず…』との御言葉はこのうえのない恐怖を必然とするもので、双方が揃うことにより信仰が深まるのである。
第1章[アル=ファーティハ]を読み終えた時には「アーミーン」と言うのがスンナ(慣行)である。アッラーの御使いは言われた、「ジブリールはアル=ファーティハを読み終えた時に『アーミーン』と言うように私に教えてくれた」(アル=バイハキーの伝えるハディース)。「アーミーン」とは、「アッラーよ、この祈りを受け入れ給え」という意味である。
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