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言え、「人々を差し置いておまえたちだけにアッラーの御許に来世の住まいがあるならば、死を願うがよい、おまえたちが正しいとすればであるが」。(2:94)
『言え』彼らに。
『おまえたちだけに』特別に。
『来世の住まいが』楽園が。
『あるならば』おまえたちが主張する通りに。
『死を願うがよい、おまえたちが正しいとすればであるが』それ(死)を願うことになるには、二つの条件が前提となるが、第一の条件は第二の条件に左右される。つまり、もし、おまえたちには楽園がある、とのおまえたちの主張が本当に正しければ、楽園が待っている者は、それ(楽園)を(現世の住まい)より好むが、そこに至る道は死であるから、それ(死)を望むことになる、という論理展開である。
彼らは決してそれを願いはしない、彼らの手がすでになしたことゆえに。アッラーは不正をなす者たちについてよく知り給う御方。(2:95)
『彼らの手がすでになしたこと』彼らの嘘に随伴する彼らの預言者への不信仰。
『アッラーは不正をなす者たちについて』不信仰者について。
『よく知り給う御方』そして彼らに報い給う。
第62章[金曜集合礼拝]7節では、「lā yatamannawna -hu(彼らは決してそれを願わない)」と否定詞「lā」が使われているのに対して、ここでは「lan yatamannaw-hu」となっているが、「lan」の方が否定度が強い。第62章6節での主張が単に「ユダヤ教徒はアッラーの友である」との主張であるのに対し、こちらでは「楽園はユダヤ教徒だけのものである」と一層独善的な主張をしているためである。
彼らが最も生に執着する人々であることに、必ずおまえは気づくであろう。多神を信じる者たちよりもである。彼らの誰もが千年の寿命があるならばと望んでいる。だが、長生きさせられても、彼は懲罰から自分を引き離すことはない。アッラーは彼らがなすことを見通し給う御方。(2:96)
『必ずおまえは気づくであろう』「必ず(la)」は誓言導入詞である。
「la-tajidanna(必ずおまえは気づくだろう)」の「la(必ず)」は誓いの言葉に対応した「ラーム(l)」で、「wa-Allāhi(アッラーに誓って)」が省略されていると考えられる。
『多神を信じる者たち』死後の甦りを否定する者。
『…よりも』もっと執着する。彼らは、死後の甦りを否認する多神教徒と違って、彼らの末路が獄火であることを知っているから。
『彼らの誰もが千年の寿命があるならば』『…ならば(law)』は「…ことを(’an)」の意味の動名詞型不定詞であり、不定詞句「千年の寿命がある(こと)」を動名詞とみなし、『望んでいる』の目的語とする。
『望んでいる』希望している。
『長生きさせられても』彼の長命が。「自分を…引き離す」の主部。
『彼は』おまえたちの一人として。
『懲罰から』獄火から。
『自分を引き離すことはない』自分を遠ざけることはない。
『彼らがなすことを』接頭辞を「ヤーゥ(y)」(「彼らがなす(ya‘amalūna)」)で読む読誦法と「ターゥ(t)」(「おまえたちのなす(ta‘amalūna)」)で読む読誦法がある。
『見通し給う御方』そして、彼(アッラー)は彼らに報い給う。
言え、「ジブリールに敵対する者とな。まことに彼こそはアッラーの御許しによりおまえの心に以前のものの確証として、また、信仰者への導きと吉報としてそれを下した者である」。(2:97)
イブン・スーリーヤが預言者、あるいはウマルに、「どの天使が啓示をもたらすのか」と尋ねた時に、預言者が「ジブリールである」と答えると、彼は「彼はわれわれの敵であり、懲罰をもたらす。もしミーカーイール(ミカエル)ならば、彼なら収穫と平安をもたらすのでわれらも信じたのに」と言った。そこで啓示が下った。
イブン・アッバースによると、イブン・スーリーヤというユダヤ教の教師が預言者に、「どの天使が啓示を携えて来るのか」と尋ね、彼が、「ジブリールである」と答えると、「彼は懲罰、苦難、恥辱をもたらす。彼はいつもわれらの敵である。ミーカーイールであれば、信じたのであるが」と言った。それに対して下されたのがこの節である。一説によれば、ウマルがマディーナでユダヤ教徒の学校を通りかかった際に、「ムハンマドの許を訪れる天使は誰か」と尋ねられ、「ジブリールである」と答えると、「それはわれらの秘密をムハンマドに明かすわれらの敵である。彼は懲罰と屈辱と苦難の持ち主であり、ミーカーイールは富と平安をもたらす」と言った。
『言え』彼らに。
『ジブリールに敵対する者とな』憤死してしまえ。
「man kāna...(ジブリールに敵対する者)」の「man」は条件節をなす関係代名詞で構文上は主部であり、後には「(そのような者がいれば)屈辱のうちに死ぬがいい」あるいは「彼への敵意には理由がない」という帰結の述部が省略されている。
『アッラーの御許しにより』御命令により。
『おまえの心に』「おまえの心に」との言及は、心が記憶の宝庫であり、主の住まいだからである。
『おまえの』と二人称になっているが、「言え」と命じられた言葉の中であるから本来は「私の」となるところである。あるいは、「アッラーは仰せられた。ジブリールに敵対する者…」と言うべきところが省略されているとも考えられる。
ジブリールはアッラーの命令によってムハンマドに啓示をもたらしたのであるから、それを恨むのは見当違いである。
『以前のもの』それより前の諸啓典。
『導き』迷誤からの。
『吉報』楽園の。
『それを下した』クルアーンを。
アッラーと彼の天使たちと使徒たちとジブリール、そしてミーカールに敵対する者、アッラーは不信仰者たちの敵であらせられる。(2:98)
『ジブリール』「ジーム(j)」を母音「i」で読む読誦法、母音「a」で読む読誦法、「ハムザ(’)」を入れる読誦法、「ハムザ」を入れない読誦法、「ヤーゥ(y)」を入れる読誦法、「ヤーゥ」を入れない読誦法がある。(Jibrīl, Jabrīl, Jabra’ īl, Jabra’il, Jabrā’īl, Jabrā’īl, Jibrāl, Jibrāyil, cf., al=Samīn, al=Durr al=Masūn, vol.2, pp.312-314)
『そしてミーカールに』『そして』は一般(天使)と個体(ミーカール)を繋ぐ接続詞。別の読誦法では「ハムザ」と「ヤーゥ」を入れて「ミーカーイール」、また別の読誦法では「ヤーゥ」は入れずに「ミーカーイル」と読む。
『不信仰者たちの』「彼らの」とするところに『不信仰者たちの』を置いたのは、彼ら(アッラー、天使、使徒、ジブリール、ミーカールの敵)の性質の説明としてである。
アッラー、天使、使徒のうち一人にでも敵対した者はすべてに敵対したのである。
われらはおまえに明証として印を確かに下した。それを否定する者は違背者だけである。(2:99)
『おまえに』ムハンマドよ。
『明証として』(証拠が)明らかなものとして。状態の副詞的修飾句。
(『明証として(baiyināt)』は、(印の)形容詞的修飾句(明白な印)、と解するほうが適切である。cf., Ahmad al= Sāwī al=Mālikī, Hāshiyah al=‘Allāmah al=Sāwī ‘alā= Tafsīr al=Jalālain, 4vol, Dār Ihyā’ al=Tarāth al=‘Arabī, Beirūt, n.d., vol.1, p.48.)
『印を確かに下した』「おまえはわれらに何ももたらさなかった」というイブン・スーリーヤの預言者に対する言葉への返答である。
(イブン・スーリーヤの言葉は)つまり、「おまえはわれらが知っているものはなにももたらさなかった。おまえにはわれらがおまえに従うような印は一つも下されなかった」。
だが、彼らが契約を結ぶ度、彼らの一部の者はそれを放棄したではないか。いや、彼らの大半は信じない。(2:100)
『だが』彼らはそれ(印)を否定し。
『契約を』預言者が現れたら、彼を信ずるとの。
『結ぶ度』アッラーと。あるいは、預言者と。彼に敵対して不信仰者と手を組まないとの契約を。
『それを放棄した』それを破棄し、投げ捨てた。
『…ではないか』『…度』の帰結節。ここが非難の疑問文の内容。
『いや』反意(の辞詞)。
彼らの持っているものを確証する使徒がアッラーの許から来ると、啓典を携えた者の一部の者は、まるで知らないかのようにアッラーの書を背後に投げ捨てた。(2:101)
『使徒が』ムハンマドが。
『まるで知らないかのように』その中にあることで、ムハンマドが真の預言者であること、あるいは、それ(律法の書)がアッラーの書であることを。
『アッラーの書を』つまり、律法の書を。
『背後に投げ捨てた』つまり、その中にある使徒への信仰などを実践しなかった。
そして彼らは、スライマーンの王権に、シャイターンたちが読むことに従った。スライマーンは不信仰に陥らなかった。ただ、シャイターンたちが信仰を拒絶し、人々に魔術を教え、バービルの二人の天使ハールートとマールートに下されたものをもまた。しかし、両者は、「われらは試みにほかならない。不信仰に陥ってはいけない」と言ってからでなければ誰にも教えなかった。両者からは妻と夫の間を引き裂くことを習ったのであるが、彼らにもアッラーの御許しなしにそれで誰をも害することはできるものではなかった。彼らは自分たちを害することを習ったのであり、益になるものではなかった。彼らは、まさにそれを売り物にした者、彼には来世になんの分け前もないことを、確かに知っていた。彼らがそのために自分自身を売り払ったもののなんと悪いことよ。もし彼らが知っていたならば。(2:102)
『スライマーンの王権に』スライマーン(ソロモン)の王権の治世に。
『王権に(‘alā mulk)』の意味には、「王権の時代に」と「王権について(偽りを述べる)」の二つの説があるが、後者がより適切である。
スライマーン王の妻の一人が40日間偶像崇拝に陥ったことがあったが、そのことでアッラーはスライマーンを咎め、同じ日数の間彼を王権から遠ざけ給うた。スライマーンの王権は彼のはめた指輪にあったが、ある時、彼はその指輪を妻の家で便所に入る際に外した。そこに彼に化けたジンがやって来て、その指輪をはめると、スライマーンの代わりに王座に就いた。40日が過ぎると、ジンは王座から飛び立ち、指輪を海に投げ捨てた。投げ捨てられた指輪は魚が飲み込んだが、それを捕らえたスライマーンが腹の中に指輪を見つけ、それをはめて王権を取り戻した。
『シャイターンたちが読むことに』読んだことに。魔法について。
『従った』(前節の)『投げ捨てた』にかかる。
シャイターンはそれをスライマーンが王権を剥奪されていた間に彼の王座の下に埋めた。別の説によれば、シャイターンは天使の会話を盗み聞きし、それに虚偽を交ぜ込んで占い師に教え、人々はそれを書き留め、それが流布し、「ジンは見えない世界を知っている」との風聞が広まった。その後スライマーンがそれらの書を集めて埋めた。スライマーンが死ぬと、シャイターンが人々にその場所を教え、人々はそれを掘り出し、その中の魔法を発見した。そこで人々はおまえたちの王権はただこれに依っている、と言い、それを学び、彼らの預言者たちの啓典を拒絶した。至高なる御方はスライマーンには罪がなかったと仰せられた。またそれは、「ムハンマドを見よ。彼は預言者の中にスライマーンを数えているが、かれはただの魔術師だった」というユダヤ教徒の言葉への反論でもある。
イスラーイールの民のうち学者は、そんなものがスライマーンの知識であるはずがない、と言ったが、庶民はそれをスライマーンの知識だと考え、それを習い、預言者の書を拒絶し、スライマーンを謗った。アッラーがムハンマドを遣わし、スライマーンの無実を啓示し給うまで人々のスライマーンに対する態度は変わらなかった。
別の説によれば、シャイターンは天使の会話を盗み聞きし、それに70の虚偽を交ぜ込んで占い師に教え、人々はそれを書き留め、「ジンは見えない世界を知っている」と言い広めた。その後、スライマーンが遣わされ、その書を箱に入れると王座の下に埋め、「『ジンは見えない世界を知っている』などと言う者がいれば、打ち首にする」と言った。スライマーンが死に、スライマーンの命令を知っている学者たちも去り、幾世代かが過ぎると、人の姿をしたシャイターンが人々をそそのかし、王座の下に埋めてあった書を取り出させ、「スライマーンはこれによって人間やジンや鳥を支配していた」と言った。それで人々の間には、スライマーンが魔法使いであったという噂が広まった。
『不信仰に陥らなかった』つまり、魔法を使わなかった。なぜならばそれは不信仰にあたるから。
『ただ』「ただ(lākinna)」には語尾を促音で読む(lākinna:名詞が後続する)読誦と促音なしに読む(lākin:動詞が後続する)読誦法がある。
『人々に魔術を教え』『シャイターンたちが信仰を拒絶し』の状態の副詞的修飾句。
『バービルの』イラクの湿原の都市。
「バービル」とはイラクの町で、そこに住む人々の言語がばらばらになって(タバルバラ)、互いに言っていることがわからなくなったことから名付けられた。
『二人の天使』『天使(malak)』は、第2語根の「ラーム(l)」の母音を「i」で読む読誦法(「王(malik)」)もある。
『ハールートとマールートに』『二人の天使』の言い替え、あるいは説明の接続。イブン・アッバースは「二人は魔法を教えた魔法使いだった」と述べている。また、彼らは、アッラーから人間への試みとして、それ(魔法)を教えるために下された天使だとも言われる。
ハールートとマールートは「天使たち」とあだなされた二人の男だと言われる。
この時代に魔術が栄え、多くの奇妙な魔術が現れたため、人々が虚偽の魔術師を見分けられるようアッラーは両名の天使を遣わし給うたとも言われる。
また、天使たちが、人間の罪の多さに人間を責め、「あなたが地上における代行者として選び給うた者たちはあなたに背いています」と言った時、アッラーは天使たちに、「彼らに備え付けられたものをおまえたちが備え付けられたら、おまえたちもわれらに背くであろう」と仰せられ、天使たちが、「わたしたちがあなたに背くようなことはありえません」と言うと、アッラーは天使の中から二人を選ばせ、それらに人間に備わった欲望などを備え付けられて地に落とし給うたとも言われる。二人の天使は昼は多神教、飲酒、殺人、姦通を禁じ、人々の間を裁き、夜はアッラーの最大の名を唱えて天に昇った。ところが、ある時、訴えに来た女の美しさに二人は魅せられ、彼女と関係を持ち、彼女に言われるままに殺人を犯し、酒を飲み、偶像を崇拝し、天に昇るためのアッラーの名を彼女に教えた。すると彼女はその名を唱えて天に昇り、アッラーが彼女を星に変え給うた。天に戻れなくなった天使はアッラーに許しを乞い、地上の懲罰と天の懲罰のうち地上での懲罰を選んだ。以上はユダヤ教徒に伝わる伝承で、確かな伝承によって裏付けられたものではない。
『下されたもの』二人が霊示された魔法。
『…をもまた』彼らは人々に教えた。
『われらは試みにほかならない』アッラーから人々への試練。それ(魔法)を教えることによって彼らを試みるための。それを学ぶ者は不信仰に陥り、それを忌避する者は信仰者である。
『不信仰に陥ってはいけない』それを学ぶことで。それでも教えをせがめば、二人はそれを教えた。
『…と言ってからでなければ』彼に忠告してからでなければ。
『誰にも教えなかった』『誰にも(min ’ahadin)』の『…も(min)』は虚字。
『妻と夫の間を引き裂くことに』双方が互いに嫌いあうようにして。
『彼らにも』魔術師たちにも。
『アッラーの御許しなしに』アッラーの御意志なくしては。
『それで』魔法で。
『誰をも』『誰をも(min ’ahadin)』の『…も(min)』は虚字。
『自分たちを害する』来世で。
『益になるものではなかった』魔法が。
『彼らは』ユダヤ教徒は。
(1)預言者の時代のユダヤ教徒、(2)スライマーンの時代のユダヤ教徒、(3)すべてのユダヤ教徒、の3つの説がある。
『それを売り物にした…』それを選んだ、あるいは、それとアッラーの書を取り換えた。
『まさに…者』「la(まさに)」は前文にかかる「構文上文頭であることを示す辞詞」の「ラーム(l)」。「者(man)」は関係代名詞。
『分け前』楽園における取り分。
『確かに知っていた』「確かに(la)」は誓言導入詞(誓って…)。
『自分自身を』売り払った者たち自身を。
『売り払った…』売った。
『…ものの』つまり、魔法を学んだことによる彼らの来世での運命の。
『なんと悪いことよ』悪いものよ。なぜなら、彼らには獄火が必定だからである。
『もし彼らが』本当に。
『知っていたならば』自分たちが遭遇することになる懲罰を。彼らはそれを習わなかったであろう。
もし彼らが信じ、畏れ身を守ったならば。アッラーからの報いこそ良いものである。もし、彼らが知っていたならば。(2:103)
『もし彼らが』ユダヤ教徒が。
『信じ』預言者ムハンマドとクルアーンを。
『畏れ身を守ったならば』アッラーの懲罰を。魔法などの反逆行為を避けることによって。『もし…ならば』の帰結節は省略されている。つまり、彼らは報奨を授かったであろうに。それは次の文で示されている。
『アッラーからの報いこそ』報奨こそ。『…こそ(la)』は誓言導入詞(誓って…)の「ラーム(l)」。
『良いものである』彼らが自分自身を売り払って得たもの(獄火)より。述部。
『もし、彼らが知っていたならば』それ(アッラーからの報奨)がより良いと。そうしたら、彼らはそれ(魔法)をそれ(アッラーからの報奨)より優先しなかったであろう。
信仰する者たちよ、「われらを看てくれ」と言ってはならない。「われらを見てくれ」と言え。そして聞け。不信仰者には痛烈な懲罰がある。(2:104)
『われらを看てくれ』「われらを看てくれ(rā‘i-nā)」は「murā‘āh(世話、監督)」の意味の命令形。
当時、人々は預言者に対してそう言っていたが、それがユダヤ人の言葉(ヘブライ語かシリア語)では「ru‘ūnah(愚か)」に由来するののしりの表現であったため、ユダヤ教徒はその意味でその言葉を預言者に投げかけた。そこで、その表現を使うことが信仰者たちに禁じられた。
『…と言ってはならない』預言者に。
『われらを見てくれ』「unzur-nā」、われわれの方を見てください。
『…と言え』言い換えよ。
『そして聞け』命じられたことを。「聞く」とは「受け入れる」の意。
『痛烈な懲罰』痛を与える。それは獄火である。
啓典の民の不信仰に陥った者も多神教徒も、おまえたちに主から善などが下されることを望まない。アッラーは彼の慈悲を御望みの者に特別にかけ給う。アッラーは大いなる恩恵を持った御方。(2:105)
『多神教徒も』アラブの。『啓典の民』に繋がっている(啓典の民…も多神教徒も…)。前置詞『啓典の民の』の『…の(min)』は、説明の前置詞の「min」。
『善』啓示。
『…などが』『…など(min)』は、虚字の前置詞「min」。
『望まない』おまえたちへの嫉妬から。
ユダヤ教徒の嫉妬は、彼らが預言者の子孫であるため、預言者性は彼らにのみ相応しいと主張するせいである。
『彼の慈悲を』彼の預言者であることを。 |