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【第2章 雌牛】
(2:146〜2:163)
 

われらが啓典を与えた者たちは自分の息子を認めるように彼を認める。しかし、彼らの一部は知りながら真理を隠すのである。(2:146)

『自分の息子を認めるように』彼らの啓典には彼の特徴が記されているからである。(ユダヤ教の教師)イブン・サラームは、「私は彼を見た時、息子が分かるように彼が分かった。いや、ムハンマドの方がもっとはっきりとわかった」と言った。

『彼を認める』つまり、ムハンマドを認める。

『知りながら』真実の隠蔽が反逆行為だと。また、ムハンマドの特徴が律法の書と福音書に書かれていることを。

『真理を隠す』ムハンマドの特徴記述を。

おまえの主からの真理である。それゆえ、疑う者のひとりとなってはならない。(2:147)

『おまえの主からの』…からもたらされた。

『真理である』おまえがその上に立つのは。

『疑う者のひとりと』それに疑念を抱く者のひとりと。つまり「疑う者という範疇に属する者の一人となってはならない」。この方が単に「疑う者となってはならない」と言うより、より修辞的に優れている。

それぞれに、彼がそれに向ける方向がある。それゆえ、諸々の善行を競え。おまえたちがどこにいようと、アッラーはおまえたちを一同に呼び寄せ給う。まことに、アッラーはすべてのことに全能な御方。(2:148)

『それぞれに』諸共同体(ウンマ)の。

『彼がそれに向ける』礼拝において彼の顔を。「muwallī-hā(彼がそれに向ける)」は、別の読誦法では、受動分詞で「muwallā-hā(彼にそれが向けられた)」と読む。

『方向』キブラ。

『諸々の善行を競え』様々な服従行為、および、それらの命令の受け入れに急げ。

『アッラーはおまえたちを一同に呼び寄せ給う』復活の日に、おまえたちを集め、おまえたちの行いに応じておまえたちに報い給う。

おまえがどこに出掛けようと、おまえの顔を聖モスクの方に向けよ。まことにそれはおまえの主からの真理である。アッラーはおまえたちのなすことを見過ごす御方ではない。(2:149)

『どこに出掛けようと』旅行で。

『おまえたちのなすことを』接頭辞を「ターゥ(t)」で「おまえたちのなす(ta‘malūna)」と読む読誦法と「ヤーゥ(y)」で「彼らのなす(ya‘malūna)」と読む読誦法がある。同様な句は既出であるが、旅行中の規定なども同じであることを明らかにするためである。

おまえたちがどこにいようと、おまえたちの顔をその方向に向けよ。人々がおまえたちに対して言い掛かりをつけないために −ただ、彼らのうち不正をなす者は別であるが、彼らを慴れず、われを慴れよ− また、われがおまえたちに対するわれの恵みを全うするために。きっとおまえたちは導かれよう。(2:150)

『おまえたちがどこにいようと、おまえたちの顔をその方向に向けよ』強調のために繰り返している(第144節参照)。

『人々がおまえたちに対して言い掛かりをつけないために』方角の変更その他で。つまり、「ムスリムはわれわれのキブラに従いながらわれわれの宗教を拒否している」と言うユダヤ教徒の言い掛かりや、「ムスリムはイブラーヒームの宗旨を説きつつ、彼のキブラに反している」という(アラブ)多神教徒の言い掛かりなどに終止符を打つため。

『彼らのうち不正をなす者は別である』頑迷さによって。彼ら(ユダヤ教徒)は「キブラの変更はただ彼の祖先の宗教への偏向のために他ならない」と言うからである。「・・は別である」は前から続く除外。「それらの者(不正をなす者)の言い掛かりは別として、誰もおまえたちには言い掛かりをつけない」という意味である。

ユダヤ教徒のうち頑迷な者たちは、カアバ聖殿に向きを変えた後も、「そちらに向きを変えたのは、先祖の宗教につられたせいにほかならない」「ムハンマドは混乱し、確かなキブラに導かれてはいない」などと言い続ける。

『彼らを慴れず』カアバへのキブラの変更で、彼らの言い掛かりを恐れるな。

『われを慴れよ』わが命令の遵守によって。

『おまえたちに対するわれの恵みを』おまえたちの宗教のさまざまな教えの導きによって。

『全うするために』「…(言い掛かりをつけない)ために」に接続している。

「恵みの完了とは、楽園に入ることである」というハディースがある。また、アリーは、「恵みの完了とは、イスラームの上で死ぬことである」と言っている。

『おまえたちは導かれよう』真理に。

ちょうどわれらがおまえたちの中に、われらの印をおまえたちに読み聞かせ、おまえたちを清め、啓典と英知を教え、おまえたちにおまえたちが知らなかったことを教える使徒を、おまえたちのうちから遣わしたように。(2:151)

『われらの印を』クルアーンを。

クルアーンは永遠に続く奇跡であり、最大の恵みである。

『おまえたちを清め』おまえたちを多神教から浄め。

『啓典』クルアーン。

『英知』その(クルアーンの)中にあるさまざまな規定。

『英知』とはスンナのことだとも言われる。また、過去の民の話、預言者の話、未来に起こる出来事など、おまえたちの理性では知り得ないことを教えた。

『使徒を、おまえたちのうちから』ムハンマドを。

おまえたちアラブ人のうちからムハンマドを使徒として遣わした。もし天使を使徒としていたら、おまえたちは逃げ出したであろう。

『遣わしたように』前(第150)節の「全うする」にかかる。つまり「われわれの遣使によってその恵みを全うしたように、(導きによって恵みを)全うするために」の意味。

それゆえ、われを念じよ、われはおまえたちを念じる。われに感謝せよ、われに背信してはならない。(2:152)

『われを念じよ』礼拝、賛美などによって。

『われはおまえたちを念じる』「おまえたちに報いる」、または「おまえたちを赦す」という意味とも言われる。アッラーの御言葉を伝えるハディース・クドゥスィー(聖伝承)に曰く。「われのことを密かに念じる者をわれは密かに念じる。われのことを主だった人々の前で念じる者をわれはそれよりも良い者たち(天使たち)のうちで念じる」

『われに感謝せよ』わが恵みに、服従をもって。

『われに背信してはならない』反逆行為によって。

われに従う者はわれに感謝したのである。また、われに背く者はわれを否定したのである。

信仰する者たちよ、忍耐と礼拝に助けを求めよ。まことにアッラーは忍耐する者と共におられる。(2:153)

『忍耐』服従と試練に対する忍耐。

『礼拝に』特にそれに言及しているのは、それを繰り返すため、またその重要性のため。

礼拝は崇拝行為の母であり、信者のミウラージュ(昇天)であり、諸世界の主との対話である。

『助けを求めよ』来世のために。

『共におられる』助けをもって。

アッラーの道において殺された者を死者と言ってはならない。いや、生きている。ただ、おまえたちは感じない。(2:154)

バドルの戦いで殺された者たち、マディーナの援助者8人とマッカからの亡命者6名の、計14人のことについて下された。人々が彼らのことを、「誰某は死に、この世の楽しみは彼を去った」と言ったのに対して下された。あるいは、不信仰者と偽信者が、「人々は、ムハンマドの満足のために無駄に、不当に命を落とした」と言ったのに対して下されたと言われる。

『死者と言ってはならない』彼らは死者であると。

『いや、生きている』彼らは。ハディースによれば、彼らの魂は緑の鳥の中にあり、思いのままに楽園を飛び回っている。

彼らの魂はアッラーの許で生き、糧と喜びを与えられている。一方、フィルアウンの一族の魂には獄火が迫り、朝に夕に苦痛に晒されている。アッラーに服した者たちは墓の中でバルザフ(現世と来世の境)において報奨に与り、アッラーに背いた者は墓で懲罰に会うのである。

『おまえたちは感じない』彼らのある状態(栄光と恵み)を。

肉体から魂が離れたという意味では死んでいるが、次の世界に移り、アッラーの許では生きているのである。ただ、われわれには彼らがどういう状態にあるかを見ることができないだけである。彼らの生は肉体的な生ではないから、肉体的な感覚では知覚できず、啓示によって明かされることによってしか知り得ない。

確かにわれらはおまえたちを、なんらかの恐怖や飢え、財産、命、収穫の損失によって試みる。忍耐する者には吉報を伝えよ。(2:155)

『恐怖』敵に対する。

『飢え』旱魃による。

『財産(の損失)』損壊による。

『命の(損失)』殺害、死亡、病気などによる。

『収穫の損失によって試みる』不作によって、おまえたちを試し、おまえたちが耐えるかどうかを見る。

『忍耐する者には吉報を伝えよ』試練に耐える者には楽園の吉報を伝えよ。 

来世に残された恵みは今手に入らなかったものの何倍も大きなものであり、今失うものなど取るに足らないものなのである。

それは、苦難が襲うと、「まことにわれらはアッラーのもの、われらは彼の許に帰り行く者である」と言う者たちである。(2:156)

『苦難が』試練が。

『まことにわれらはアッラーのもの』所有物として、また、しもべとして。アッラーはわれらに御望みのことをなし給う。

『われらは彼の許に帰り行く者である』来世で。そしてわれらに報い給う。「苦難の時にイスティルジャーウ(「まことにわれらはアッラーのもの、われらは彼の許に帰り行く者である」と唱えること)をした者に、アッラーは苦難において報奨を与え、良いものを継がせ給う」(ハディース)。「また、預言者は、灯火が消えた時、『まことにわれらは…』と言った。それを聞いたアーイシャが『たかが灯火ではないですか』と言うと、預言者は『ムスリムに起こるすべての悪いことは苦難である』と言った」(アブー・ダーウードが彼の『アル=マラースィール』の書の中に収録したハディース)。

それらの者の上には彼らの主からの祝福と慈悲がある。それらの者こそ導かれた者である。(2:157)

『祝福』赦し。

『慈悲』恵み。

『それらの者こそ導かれた者である』正しい道に導かれた者である。

まことにサファーとマルワはアッラーの諸宗教儀礼のひとつである。それゆえ、館に大巡礼、または小巡礼をする者はこの二つを巡回しても咎はない。善行を喜んでなした者、まことにアッラーはよく感謝し、よく知り給う御方。(2:158)

『サファーとマルワ』マッカの2つの丘。

『アッラーの諸宗教儀礼』彼の宗教の象徴。諸宗教儀礼(sha‘ā’ir)は宗教儀礼(sha‘īrah)の複数形。

『館に大巡礼、または小巡礼をする』つまり「ハッジ(大巡礼)」、あるいは「ウムラ(小巡礼)」に参入する(アル=ジャマル脚注:意図をもって入ること)。両者の原義は、それぞれ「意図」、「訪問」である。

『この二つを』その2つの間を7回往来すること(サアイ)は罪ではない。ジャーヒリーヤ(無明)の時代、この2つの丘には2体の偶像が置かれ(サファーには男神イサーフ、マルワには女神ナーイラ)、その間を人々は往来し像を撫でた。それでムスリムたちがこの往来を嫌ったため、この節は下された。

イブン・アッバースによれば、『罪ではない』と選択を与えていることからサアイは確定義務(ファルド)ではない。アル=シャーフィイーらはこれを構成要件(ルクン)と見なす。なお、預言者は、これが確定義務であることを次の言葉で明白にしている。「サアイせよ。アッラーはあなたがたにサアイを課し給うた」(アル=バイハキー等の伝える伝承)。また預言者は言われた、「アッラーが始め給うたところから始めよ」。つまり、サファーから始めよ。ムスリムがこれを伝えている。

『巡回しても』「巡回し(yattawwafa)」においては、元(yatatawwafa)の第5形動詞の挿入文字「ターゥ(t)」が「ターゥ(t)」に吸収・同化されている。

『咎はない』罪はない。

『善行を』善行によって。つまり、義務ではないタワーフ(周回礼)その他の行為。

『喜んでなした者』『喜んでなした(tatawwa‘a)』は、別の読誦法では、接頭辞を三人称男性未完了形「ヤーゥ(y)」とし、第1語根の「ターゥ(t)」に第5形動詞の挿入文字「ターゥ(t)」が吸収・同化し促音となり、語尾は動詞未完了短形で「喜んでなす(yattawwa‘)」と読む。

『よく感謝し』その行為に、それに対する報奨をもって。

「shakīr(よく感謝する者)」の語義は、自分にもたらされた恩恵を明らかにする者のことであるが、アッラーに関しては、報いを与え給うことを意味する。アッラーは善行をよく知っておられ、報いにおいてわずかでも欠けるようなことはなし給わない。

『よく知り給う御方』彼(の諸状況)を。

われらが下した明証と導きを、われらが啓典でそれを人々に解明した後に、隠す者たち、それらの者をアッラーは呪い給い、呪う者たちも彼らを呪う。(2:159)

ユダヤ教徒について啓示された。

『われらが下した明証と導き』姦通に対する石打の規定の節やムハンマドの記述など。

『啓典で』律法の書の中で。

『隠す』人々に対して。

『それらの者をアッラーは呪い給い』彼らをその慈悲から遠ざけ給い。

『呪う者たち』天使や信仰者たち。あるいは彼らに対して呪いの祈願をするものすべて。

あらゆる動物、虫、蠍までもが彼らに災いを祈る。

この節は、理性的な根拠によって宗教の根本を解明することができる者が、それ(その解明)を必要とする者にそれ(解明すること)を怠ったり、アッラーの掟のなにかを、それが必要とされる時に隠す者には、この警告が現実のものとなることを示すものである。


ただし、悔いて戻り、正し、明らかにする者たち、それらの者にわれは戻り顧みる。われはよく戻る慈悲深い者である。(2:160)

『悔いて戻り』それから立ち戻り。

「タウバ=戻ること」とは、なしたことを悔い、二度と繰り返さない決意で行いを正すことである。

『正し』彼らの行いを。

『明らかにする』自分たちが隠したものを。

それは過去の反逆行為から決別を意味する。行いを正し、己の過ちとそこからの悔悟を明らかにすることが悔悟には欠かせない。

『それらの者にわれは戻り顧みる』彼らの悔悟を受け入れる。

アッラーの三人称から二人称への転換は呪いから慈悲への転換を示すもので、そこにはアッラーの寛大さ、慈悲深さが現れている。

『慈悲深い者である』信仰者に対して。

まことに、信仰を拒み、不信仰者として死んだ者、それらの者にはアッラーと天使と人間すべての呪いがある。(2:161)

『不信仰者として』状態の副詞的修飾句。

『それらの者にはアッラーと天使と人間すべての呪いがある』つまり、彼らは現世と来世でそれに値する。「人間」とは、(人間)一般とも信仰者たちとも言われる。

彼らはその中に永遠に留まる。彼らの懲罰が軽減されることはなく、彼らは猶予を与えられることはない。(2:162)

『彼らはその中に永遠に留まる』つまり、呪い(の中に)、あるいは、それによって示唆される獄火の中に。

『彼らの懲罰が軽減されることはなく』一瞬たりとも。

『彼らは猶予を与えられることはない』悔悟や弁明のための時間を与えられない。

おまえたちの神は唯一なる神である。彼のほかに神はなく、慈悲あまねく慈悲深き御方。(2:163)

彼ら(クライシュ族の不信仰者)が「われらにおまえの主について描写せよ」と言った際に下された。

クライシュ族の不信仰者が「ムハンマドよ、おまえの主を記述し、またその系譜を示せ」と求めたのに対してこの節は下された。

『おまえたちの神は』おまえたちの崇拝に値する神は。

『唯一なる神である』その本質においても、諸属性においても彼は比類ない。

『慈悲あまねく慈悲深き御方』彼は。


転載:「ジャラーラインのクルアーン注釈」
中田香織 訳
中田 考 監訳
日本サウディアラビア協会出版



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2005年 アラブ イスラーム学院