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【第3章 イムラーン家】
(3:1〜3:15)
 

マディーナ啓示。
200節。あるいは、1節を除く。
章の名は『…イムラーン一族を諸衆の上に選び給うた』(第33節)から取られた。イムラーンについては、ムーサーの父であるか、マルヤムの父であるかで見解が分かれる。両者の間には1800年の開きがある。前者の場合、「彼の一族」とはムーサーとハールーンであり、後者の場合、「彼の一族」とはマルヤムとイーサーである。「イムラーン一族」がイムラーン自身を指すことは解説の中で述べられる。

アリフ・ラーム・ミーム。(3:1)

これが意味するところはアッラーが最もよく御存知である。

アッラー、彼のほかに神はない。生き、維持し給う御方。(3:2)

『生き』とは、つまり、本質的な生の所有者、『維持し給う御方』とは、援助者の仲介なく彼の被造物の諸事を自ら取り仕切る御方、の意(cf., al=Sāwī, Hāshiyah al=Sāwī, vol.1, p.138)。

彼はおまえの上に真理をもって、それ以前のものの真実性を裏付けるものとして、その啓典を下し給うた。そしてまた、律法の書と福音書を下し給うた。(3:3)

『おまえの上に』ムハンマドよ。

『真理をもって』それが伝えることにおける真実性と共に。

『それ以前のものの』それ(クルアーン)以前の諸啓典の。

『その啓典を』クルアーンを。

以前に人々への導きとして。そして、分別を下し給うた。アッラーの諸印を拒絶する者、彼らには烈しい懲罰がある。アッラーは威力並びなく、報復をなし給う御方。(3:4)

『以前に』それ(クルアーン)の啓示以前に。

『人々への』この二書(ムーサーの律法の書とイーサーの福音書)に従う者のうち。

『導きとして』状態の副詞的修飾句の対格。誤りから導くものとして、との意。
この二書においては、『下し給うた(’anzala)』が用いられ、クルアーンにおいては反復を伴う『下し給うた(nazzala)』が用いられるのは、それ(クルアーン)と違って二書は一度に下されたからである。

『分別を』真理と虚偽を分かつ啓典を、という意味。三書の言及の後にこれに言及しているのは、これが他のものを包括するからである。

『アッラーの諸印』クルアーン、その他。

『アッラーは威力並びなく』彼の御業において圧倒的で、なにものも彼の約束と警告の成就を妨げることはできない。

『報復をなし給う御方』彼に背いた者に対し、他の誰にもできないような厳しい応報をなし給う御方。

まことに、アッラーに対しては、地のなにものも、また天のものも隠れえない。(3:5)

『地の』地にある。

『なにものも、また天のものも隠れえない』世界に起こることは、その全体も細部も彼は知り給うがゆえに。天地を特記しているのは、五感はそれらを越えることができないからである。

彼こそは、おまえたちを子宮のうちに御望みのままに形作り給う御方である。彼のほかに神はない。威力比類なき英明なる御方。(3:6)

『彼こそは、おまえたちを子宮のうちに御望みのままに形作り給う御方である』男にも女にも、白くも黒くも、それ以外のものにも。

『威力比類なき』彼の主権において。

『英明なる御方』彼の御業において。

彼こそは、おまえにかの啓典を下し給うた御方で、その中には確固たる諸印がある。それらはその啓典の母であり、他は曖昧なものである。心に歪みのある者たちは、誘惑を望み、また、その真意を望んで、そのうちの曖昧なものに従う。だが、その真意はアッラーのほかは知らない。知識に深く精通した者たちは、「われらはそれを信じる。どれもわれらの主の御許からのもの」と言う。だが、賢慮ある者を除き、教訓としない。(3:7)

『確固たる』根拠の明白な。

『それらはその啓典の母であり』規定に関し、その(啓典の)拠り所とされる基礎であり。

『他は曖昧なものである』意味がわからないもの。例えば、章の冒頭の文字など。

一方、『uhkimat ’āyātu-hu(その諸印は完璧にされている)』(第11章[フード]1節)との御言葉では、そこには欠陥がない、という意味で、アッラーはその(クルアーンの)全体を「muhkam(完璧なもの)」となし給うている。また『kitāban mutashābihan(互いに似通った書として)』(第39章[集団]23節)との御言葉における「互いに似通った(mutashābih)」とは、美しさと真実性においては互いに似ているという意味。

『心に歪みのある者たち』真理から逸れた者。

『誘惑を』無知ゆえに、曖昧さや混同に躓くこによって。

疑いを起こさせたり、混乱させたりして人々をその宗教(イスラーム)から外へ誘い出すことを求めて。

『望み』求めて。

『その真意を』(『その真意(ta’wīl)』とは、その解釈(タフスィール)との意。

『だが、その真意は』その解釈(タフスィール)は。

『アッラーのほかは知らない』彼おひとり以外は。

『アッラーのほかは知らない』で文を切る読み方で、これは先人たちの説であり、そのほうがより無難であるので、(『タフスィール・アル=ジャラーライン』の)注釈者もこの説を取っている。一方、後世の学者たちの説はより理知的で、この節の最後の『だが、賢慮ある者を除き教訓としない』で文を切り、『知識に深く精通した者たち』は『アッラー』に同格でつなぐ(つまり、「その真意はアッラーと知識に深く精通した者たちのほかは知らない」)( cf., al=Sāwī, Hāshiyah al=Sāwī, vol.1, p.138)。

『知識に深く精通した者たちは』主部。確かで、しっかりとした者。その述部は以下の『「われらはそれを信じる。どれもわれらの主からのもの」と言う』。

『知識に深く精通した者』とは、次の4つのものを備えた者である。アッラーとの関係におけるタクワー(畏れ)、人々との関係における謙虚さ、現世との関係における禁欲、そして、自己との関係における精進である。

『われらはそれを信じる』つまり、そのうち曖昧なものを、その意味はわからないが、それがアッラーの御許からのものであることを。

『どれも』明確なものも、曖昧なものも。

『賢慮ある者を除き』理性のある者を除き。

『教訓としない』つまり、教訓を得ない。元(「yatadhakkaru」)の動詞派生形第5形の接頭辞「ターゥ(t)」が「ザール(dh)」に吸収・同化されて「yadhdhakkaru」となっている。

われらが主よ、われらを導き給うた後、われらの心を逸らし給うな。あなたの御側から御慈悲を恵み給え。まことにあなたは贈与し給う御方。(3:8)

『われらが主よ』それ(曖昧なもの)に従う者たちを目にして彼らは言う。

『われらを導き給うた後』われらをそこ(真理)へと案内し給うた後。

『われらの心を逸らし給うな』真理から。われらに相応しくない解釈を求めることによって。それらの者たちの心を逸らし給うたように。

『あなたの御側から』あなたの御許から。

『御慈悲を恵み給え』確固たる信仰を。

「確固たる信仰」が「御慈悲」がここで具体的に指しているものであるから。他の場所では同じ語(『御慈悲』)を「雨」「御赦し」、とも解説している (cf., al=Sāwī, Hāshiyah al=Sāwī, vol.1, p.140)。

われらが主よ、まことにあなたは疑いのない日に人々を集め給う御方。まことにアッラーは約束を違え給わない。(3:9)

『われらが主よ』ヤー(われらが主よ)。

『疑いのない…』疑念の。

『…日に』それは復活の日である。

『人々を集め給う御方』そして、あなたは、あなたが約束し給うたように、彼らに彼らの行いに応じて報いを与え給う。

『約束を違え給わない』再生によって彼の約束を。ここでは人称の転換が起こっている。これは至高なる御方の言葉であるとも考えられる。この祈願の目的は、彼らの関心が来世のことであることを明らかにするものである。それゆえ彼らは、その報償を得るために導きの上に確かに留まることを祈ったのである。アーイシャは言った。アッラーの御使いはこの節(『彼こそはおまえにかの書を下し給うた御方で…』からその最後まで)を読まれると、言われた、「そのうち曖昧なものに従う者たちを見たら、それらの者はアッラーが名付け給うた者たちであるから、彼らに警戒しなさい」(アル=ブハーリーとムスリムの伝える伝承)。

アル=タバラーニー(Sulaimān bn Ahmad, d.360/971)の『(アル=ムウジャム)アル=カビール』によると、アブー・ムーサー・アル=アシュアリーは、預言者が次のように言われるのを聞いた、「私は私のウンマに3つの混乱だけを恐れる」。それについて述べて言われた、「彼らに啓典が開かれ、信仰者はそれを取って、解釈を求める。だが、その解釈はアッラーしかご存知でない。知識に通じた者たちは、われらは、それがみなわれらの主の御許からのものであると信じる、と言うが、理性ある者しか教訓を得ない」。

「彼らに啓典が開かれ」とは、彼らに読み聞かせられ、それを聞く、ということである。アル=スユーティーの『アル=ドゥッル アル=マンスール』によると完全なハディースは以下のようである。アル=タバラーニーが伝えるが、アブー・マーリク・アル=アシュアリーによると、彼はアッラーの御使いが言われるのを聞いた、「私は私のウンマに3つの混乱しか恐れない。彼らに財産が増え、互いに妬み合い、殺しあうこと。彼らに啓典が開かれ、信仰者がそれを取って、解釈を求めること。だが、その解釈はアッラーしかご存知でない。知識に通じた者たちは、われらは、それがみなわれらの主の御許からのものであると信じる、と言うが、理性ある者しか教訓を得ない。また、彼らの知識が増え、それを失い、それについて尋ねなくなることである」。

信仰を否定する者、彼らの財産も子孫もアッラーに対してはなんの足しにもならない。それらの者こそ獄火の薪である。(3:10)

『彼らの財産も子孫もアッラーに対しては』つまり、彼の懲罰に対しては。

『なんの足しにもならない』防ぐことはない。

『薪である』火を熾すためのものである。

「waqūd(薪)」の第1語根「ワーウ(w)」は母音「a」で読む。

フィルアウンの一族や彼ら以前の者たちの慣わしのよう。彼らはわれらの印を否定し、アッラーは彼らの罪のせいで彼らを捕え給うた。アッラーは応報に厳しい御方。(3:11)

『フィルアウンの一族や彼ら以前の者たちの』アードの民、サムードの民などの。

『慣わしのよう』彼らの慣わしは、(フィルアウンの一族、アードの民、サムードの民などの)習慣のよう。

『アッラーは…彼らを捕え給うた』彼らを滅ぼし給うた。この文は前の句(『フィルアウンの一族や彼ら以前の者たちの慣わしのよう』)を説明する文節である。


信仰を拒絶する者たちに言え、「おまえたちはいずれ打ち負かされ、火獄に追い集められよう。なんと悪い臥所であることか」。(3:12)

バドルの戦いから戻ると、預言者はユダヤ教徒たちにイスラーム入信を命じられたが、彼らは彼に対し、「クライシュ族の一部の戦い方も知らない雑兵たちを殺したからといって勘違いするな」と答えた。

戦場から戻ると、ユダヤ教徒のカイヌカーウ族の市場で彼(預言者)は、「彼らにクライシュ族に起きたのと同じことが起きないように」と警告されたが、彼らは、「クライシュ族の一部の戦い方も知らない雑兵たちを殺したからといって勘違いするな(つまり、調子に乗るな)」と言い、ついで、「もしおまえたちがわれらと戦うなら、われらこそ戦士であるのを知るだろう」と豪語した。

『信仰を拒絶する者たちに』ユダヤ教徒の。

『言え』ムハンマドよ。

『おまえたちはいずれ打ち負かされ』現世においては、殺害と捕虜とジズヤ(人頭税)の課税によって。実際、その通りとなった。二人称の接頭辞の「ターゥ(t)」で「tughlabūna(おまえたちは…)」と読む読誦法と、三人称複数形の接頭辞の「ヤーゥ(y)」で「yughlabūna(彼らは…)」と読む読誦法がある。

『火獄に』来世で。

『追い集められよう』そして、そこ(火獄)に入れられる。2通り(二人称と三人称)の読誦法がある。

『なんと悪い臥所であることか』寝床であることか。それは。

確かにおまえたちには遭遇した両軍において印があった。一方はアッラーの道に戦い、もう一方は不信仰の軍であった。彼らの目には相手が自分たちの二倍に見えた。アッラーは御望みの者に彼の援助をもって加勢し給う。まことにこのうちには心眼を持った者への教訓がある。(3:13)

『確かにおまえたちには遭遇した』バドルの日に、戦闘のために。

『両軍において』両派において。

『印が』教訓が。

『…あった』動詞は男性形であるが、これは主部(『印』女性形)との間が(別の単語によって)仕切られているためである。

『一方はアッラーの道に戦い』彼への服従において。それは、預言者と彼の仲間たちである。彼らは330人で、2頭の馬と6枚の鎧と8本の剣を持ち、彼らのほとんどは歩兵であった。

『彼らの』不信仰者の。

『目には』一見、表面的には。

『相手が』ムスリムたちが。

『自分たちの二倍に見えた』彼らは1000人あまりであったが、自分たちよりも多く見えた。アッラーは彼ら(ムスリム軍)の少なさにもかかわらず、彼らを助け勝たせ給うたのである。

『アッラーは御望みの者に』応援を望み給うた者に。

『援助をもって加勢し給う』強化し給う。

『このうちには』ここに述べたことには。

『心眼を持った者への教訓がある』心眼の持ち主への。それなのに、おまえたちはこれについて考え、信仰しないのか。

人々には諸々の欲望が飾られた。女、息子、莫大な金銀の財宝、焼き印を当てた馬、家畜や耕地など。それらは現世の生活の楽しみである。だが、アッラーの御許にこそ最高の帰り処はある。(3:14)

『諸々の欲望が』自我が欲し、求めるものへの。

『飾られた』アッラーはそれを試練として美しく飾り給うた。あるいは、シャイターンが。

『莫大な』山積みの。

『金銀の財宝』多くの財産。

『焼き印を当てた馬』駿馬。

『家畜や』つまり、ラクダ、牛、羊。

『耕地など』作物。

『それらは』上記のものは。

『現世の生活の楽しみである』そこ(現世)で楽しみ、その後、消えてなくなるものである。

『最高の帰り処はある』戻る所。それは楽園である。それゆえ、ほかのものよりもそれを希求すべきである。

言え、「それよりも良いものについておまえたちに告げようか。畏れ身を守る者たちには彼らの主の御許に、下を川が流れる楽園があり、彼らはそこに永遠に留まる。また、清らかな伴侶たちとアッラーからの御満悦がある。アッラーはしもべたちを見ておられる」。(3:15)

『言え』ムハンマドよ。おまえの民に。

『それよりも』前述の欲望よりも。

『おまえたちに告げようか』教えようか。確認の問いかけである。

『畏れ身を守る者たちには』シルク(多神崇拝)を。

『彼らの主の御許に』述部である。その主部は以下(『下を川が流れる楽園』)。

『彼らはそこに』いったん入ったならば。

『永遠に留まる』つまり、永遠が定められている。

『清らかな』月経、その他の汚らわしいものから。

『アッラーからの御満悦がある』「ridwān(御満悦)」には「rudwān」と読む読誦法もあるが、二つの方言である(同義)。つまり、多くの満足である。

『アッラーはしもべたちを見ておられる』ご存知であらせられる。そして、彼らのそれぞれに、それぞれの行いに応じた報いを与え給う。


転載:「ジャラーラインのクルアーン注釈」
中田香織 訳
中田 考 監訳
日本サウディアラビア協会出版



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2005年 アラブ イスラーム学院