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言え、「どんなものが証言として最大か」。言え、「アッラーである。彼は私とおまえたちの間の証言者であらせられる。このクルアーンが私に啓示されたのは、おまえたちと届いた者にそれを警告するためである。おまえたちはアッラーに並んでほかの神がいると証言するのか」。言え、「私は証言しない」。言え、「彼は唯一の神にほかならない。そして、私はおまえたちが同位に崇拝するものとは無関係である」。(6:19)
人々が預言者に、「おまえの預言者性を証言するものをわれらの許に持って来い。啓典の民はおまえを否認している」と言ったことに対して下された。
マッカの住民は預言者に言った、「ムハンマドよ、おまえがアッラーの使徒であることを証言する者を見せよ。誰ひとり信じられる者がいない。おまえについてはユダヤ教徒とキリスト教徒に尋ねたが、彼らは彼らの許におまえについての言及はない、と主張している」。
『言え』
彼らに。
『どんなものが証言として最大か』
『証言として(shahādatan)』は主格が弁別の対格に転じたもの。
元は、「どんな証言が最大か」あるいは、「どんなものの証言が最大か」。
『言え、「アッラーである・・・」』
たとえ彼らがそう言わなくても、それ以外の返答はない。
『彼は・・・証言者であらせられる』
私の(使徒としての)真実性の。
『おまえたちと』
マッカの住民たちよ。
『届いた者に』
『おまえたち』に接続する。つまり、人間とジン(幽精)のうち、クルアーンが届いた者。
『おまえたちと・・・警告するためである』
おまえたちを威嚇するためである。
『おまえたちはアッラーに並んでほかの神がいると証言するのか』
非難の疑問文。
『言え』
彼らに。
『私は証言しない』
そのようなことは。
『おまえたちが同位に崇拝するものとは』
偶像で、彼(アッラー)と(同位に崇拝するもの)。
われらが啓典を授けた者たちは、彼らが自分たちの子供を認めるように彼を認める。自分自身を損なった者、彼らは信じない。(6:20)
『彼を認める』
ムハンマドを。彼らの啓典の中に書かれた彼の特徴の記述によって。
『自分自身を損った者』
彼らのうち。
『彼らは信じない』
彼を。
伝承によると、預言者がマディーナに行かれると、アブドッラー・ブン・サラームは入信した。ウマルは彼に言った、「アッラーはマッカで彼の預言者について、『われらが啓典を与えた者たちは・・・』と仰せられたが、どのように知ることができるのか」。すると、アブドッラー・ブン・サラームは、「ウマルよ、私は彼を見た時に、自分の子供を認めるように彼を認めた。自分の息子よりもムハンマドのことをもっとよく知っていたからだ」と言った。ウマルは尋ねた、「それはどうしてか」。すると彼は言った、「私は彼がまことにアッラーの使徒であることを証言するが、女のすることは私にはわからないからだ」。
アッラーについて虚偽を捏造するか、彼の印を嘘だと否定する者より不正な者が誰かあろうか。まことに、不正な者が成功することはない。(6:21)
『アッラーについて虚偽を捏造するか』
アッラーに共同者を置くことによって。
『彼の印を』
クルアーンを。
『・・・誰かあろうか』
つまり、誰もいない。
『まことに』
『まことに( ’inna-hu)』の代名詞「ハーゥ(h)」は、主題。
『不正な者が成功することはない』
それによって。
そして、われらが彼らを一斉に集める日。それから、われらは多神を拝した者たちに、「おまえたちが言い張っていた仲間はどこか」と言う。(6:22)
『そして』
思い起こせ。
『われらは・・・言う』
非難して。
『おまえたちが言い張っていた仲間』
アッラーの共同者だと言い張っていた仲間。
それから彼らの言い訳はただ、「われらが主アッラーに誓って、われらは多神教徒ではなかった」と言うほかない。(6:23)
『彼らの言い訳』
『彼らの言い訳』には、語尾を母音「a」で対格(fitnata-hum)で読む読誦法と、語尾を母音「u」で主格(fitnatu-hum)で読む読誦法がある。(「fitnah」とはここでは)言い訳ということである。
つまり、彼らの返答のことである。それが「fitnah=惑わし」と呼ばれているのは、それが虚偽の返答だからである。彼らは現世でそれを慣わしにしていたように来世においても嘘をつくのであった。しかも、この言葉において彼らは、元の嘘に加え、誓いの言葉でそれを強調することによって2重の嘘を述べている。そして、この後彼らの口は封じられ、彼らの四肢が証言をする。(・・・)
『われらが主アッラーに誓って』
『われらが主』は(『アッラー』の)形容修飾句であれば属格(「rabbi-na」)で、呼びかけであれば対格(「rabba-na」)となる。
『・・・と言うほか・・・』
(次の)彼らの言葉だけである。
『・・・ない』
三人称単数女性形(「lam takun」)とする読誦法と、三人称単数男性形(「lam yakun」)とする読誦法がある。
前者の場合、『彼らの言い訳』は主格とすることが可能で、それは『・・・ない』の主語名詞であり、『・・・と言うほかない』がその述部である。(『彼らの言い訳』が)対格の場合には、その逆(つまり、『・・・と言うほかない』が主部で、『彼らの言い訳』がその述部)となる。この読誦法(つまり『・・・ない』が女性形)の場合、『われらが主』は属格である。一方、後者(『・・・ない』が男性形)の場合、『彼らの言い訳』は対格に限り、『われらが主』もまた対格になる。したがって、3通りの読誦法がある。
見よ。彼らが自分自分にどのように嘘をついたかを。そして、彼らが捏造したものは彼らから見えなくなった。(6:24)
『見よ』
ムハンマドよ。
『彼らが自分自分にどのように嘘をついたかを』
自分たちの多神教を否定することによって。
『彼らが捏造したものは』
アッラーに対して捏造した共同者。
『見えなくなった』
居なくなった。
彼らの中にはおまえに耳を傾ける者もあるが、われらは彼らがそれを理解することに彼らの心に覆いをなし、彼らの耳を難聴にした。それで、彼らはどの印を見てもそれを信じない。そして、おまえの許に来ればおまえと議論するしまつで、信仰を拒絶する者たちは、「これはただの昔の者の物語に過ぎない」と言う。(6:25)
『おまえに耳を傾ける者もあるが』
おまえが読誦する時には。
『彼らがそれを理解することに』
『・・・こと( ’an)』に否定詞「 lā」を補う(「理解しないこと」)。クルアーンを理解しないように。
『覆いをなし』
蓋を。
『彼らの耳を難聴にした』
聾にし、聞こえないようにした。「聞く」とは「聴従」である。
『これは』
クルアーンは。
『昔の者の物語』
笑い話や不思議物語のような作り話。『物語(’asātīr)』とは、「’ustura」の複数形。
『ただの・・・に過ぎない』
『ただの・・・に過ぎない(’in...’illā)』の『・・・ない(’in)』は否定詞「 mā」の意(つまり、ただの昔の者の物語にすぎない)。
アル=カルビーによると、アブー・スフヤーン、アブー・ジャフル、アル=ワリード・ブン・アル=ムギーラ、アル=ナドル・ブン・アル=ハリス、ラビーアの息子たちのウトゥバとシャイバ、ウマイヤ・ブン・ハルフ、そしてアル=ハリス・ブン・アーミルがクルアーンを聞き、彼らはアル=ナドルに言った、「アブー・クタイバよ、ムハンマドはなんと言っているのか」。アル=ナドルは言った、「私には彼がなにを言っているのかわからない。ただ、彼の口が動いているのが見えるだけで、昔の者が語ったような昔の作り話を言っているのだ」。アル=ナドルは昔話をたくさん知っていた。そこでアブー・スフヤーンは言った、「彼の言っていることの一部は真実であるように思う」。すると、アブー・ジャフルは、「いや、そのうちの何ものであれ決して認めてはならない」と言った。別の伝承によれば、「われらにはそれ(を受け入れることより)死ぬ方が易しい」と言った。
彼らはそれを阻止し、それから離れる。彼らはただ自分自身を滅ぼすだけだが、気づいていない。(6:26)
『彼らは』
人々は。
『それを』
預言者に従うことを。
『それ』とは、クルアーンのことであるとも、使徒のことでもあるとも考えられる。
『それから離れる』
それから遠ざかる。それで彼を信じない。
この節は(預言者の叔父の)アブー・ターリブについて下されたとも言われる。彼は多神教徒たちが預言者に害をなそうとするのを阻止したが、彼自身は預言者を信じていなかった。
ただし、これに先立つ節は不信仰者のやり方を非難するものであることから、『彼らはそれを阻止し、それから離れる』もまた非難であると解釈すべきであり、また、これに続く『彼らは自分自身を滅ぼすだけだ』も非難を意味するもので、良い行為である「多神教徒の危害を阻止する」という意味とは繋がらない。
『彼らはただ・・・だけだが』
『・・・だが( ’in)』は否定詞「mā」の意(つまり、ただ・・・だけにほかならないが)。
『自分自身を』
なぜなら、その害は自分たちの上に降りかかるからである。
『滅ぼす』
それから遠ざかることによって。
『気づいていない』
それに。
もしおまえが、彼らが火の前に立たされるのを見るならば。その時、彼らは言う、「ああ、戻されることがあればよいものを。そうすれば、われらはわれらの主の印を嘘だと否定せず、信仰者のひとりとなったものを」。(6:27)
『もしおまえが・・・見るならば』
ムハンマドよ。
『立たされるのを』
晒されるのを。
『ああ・・・』
注意を喚起する言葉。
『戻されることがあればよいものを』
現世に。
『われらはわれらの主の印を嘘だと否定せず、信仰者のひとりとなったものを』
2つの動詞(『否定せず』『・・・となった』)は、新たな文章とし、直説法で語尾は母音「u」で「wa lā nukadhdhibu」「wa nakūnu」と読む読誦法(「戻され、否定せず、信仰者のひとりとなればよいものを」)、願望節の帰結節として接続法で母音「a」で「wa l ā nukadhdhiba」「 wa nakūna」と読む読誦法、また、前者を直説法、後者を接続法とし「wa la ( lā?) nukadhdhibu」「 wa nakūna」と読む読誦法(「戻され、否定しなければよいものを。そうすれば、信仰者のひとりとなったものを」)がある。
(条件節)『もし・・・見るならば』の帰結は「大変なことを目にしたであろう」(が省略されている)。
いや、以前から彼らが隠していたものが彼らに明らかになったのである。もし彼らが戻されたとしても、禁じられていたことに戻ったであろう。まことに彼らは虚言の徒である。(6:28)
至高なる御方は仰せられた。
『いや』
(前節の)願望文から理解される信仰への意志に対する打消しである。
『以前から彼らが隠していたものが』
『われらが主アッラーに誓って、われらは多神教徒ではなかった』という言葉で隠したことが四肢の証言によって。
『明らかになったのである』
現れたのである。そのため彼らはそれ(信仰)を(好んでではなく、嫌々ながらも)願ったのである。
『もし彼らが戻されたとしても』
仮に、現世に。
『禁じられていたことに戻ったであろう』
多神教に。
『まことに彼らは虚言の徒である』
信仰を約束することにおいて。
彼らは、「それはわれらの現世の生活のみで、われらが復活させられることなどない」と言った。(6:29)
『彼らは・・・言った』
復活を否定して。
『それは・・・のみで』
『 ’in...’illā(それは・・・のみで)』の「 ’in」は否定詞「mā」の意。
『それは』
生は。
もしおまえが、彼らが彼らの主の前に立つのを見るならば。彼は仰せられた、「これは真実ではないか」。彼らは言った、「われらの主にかけて、そのとおり」。仰せられた、「では、おまえたちが拒絶したことゆえに懲罰を味わえ」。(6:30)
『立つ』
身を晒す。
『見るならば』
おまえは大いなることを見たであろう。
『彼は仰せられた』
天使の口を通じて彼らに。非難として。
『これは』
復活と清算は。
『われらの主にかけて、そのとおり』
それは真実である。
『おまえたちが拒絶したことゆえに』
それを現世で。
アッラーとの面会を嘘だと否定し、そしてついにその時が不意に彼らに来ると、「ああ、われらがそこで疎かにしたことへのわれらの悲嘆よ」と言う者たちは損をしたのである。その時、彼らは背に自分たちの重荷を背負っている。彼らの負うものはなんと悪いものではないか。(6:31)
『アッラーとの面会を』
復活によって。
『そしてついに』
嘘だと否定することの帰着である。
『その時が』
復活の日が。
『その時』とは、これは死の前段階の一時を意味する。なぜなら死は復活の時の始まりだからである。アッラーの御使いは言われた、「死んだ者には彼の復活の日は来たのである」。
『不意に』
突然。
『ああ・・・われらの悲嘆よ』
深い悲しみのことである。それに向かって呼びかけているのは比喩である。つまり、「(われらの悲嘆よ)今がおまえの出番である、それゆえ、やって来い」。
『われらがそこで・・・』
現世で。
『・・・疎かにしたこと』
欠いたもの。
『その時、彼らは背に自分たちの重荷を背負っている』
復活の時、それは彼らの許に姿が最も醜く、匂いが最も悪いものの姿でやって来て、彼らの上に乗りかかる。
信仰者が墓から出ると、彼は最も美しい姿をし、良い香りのするものが彼を迎え、「私が誰かわかるか」と言う。彼が、「わからない」と言うと、「私はおまえの善行である。それゆえ私に乗って、私が現世でおまえに乗っていただけ手綱を取れ」と言う。『われらが畏れ身を守った者たちを慈悲深い御方の許まで使節(つまり、騎士として)のように集められる日』(第19章[マルヤム]85節)とアッラーが仰せられたのはこのことである。
一方、不信仰者は最も醜い姿で臭い匂いを放つものが迎え、「私が誰かわかるか」と言う。「わからない」と言うと、「私はおまえの醜悪な行いである。おまえが現世で私に乗っかっただけ今日、私はおまえに乗る」と言う。これが、『その時、彼らは背に自分たちの重荷を背負っている』の意味するところである。
『彼らの負うものは』
彼らが運ぶその荷は。
『なんと悪い』
なんと酷い。
現世の生活は遊びと戯れに過ぎない。そして、来世の住まいこそ畏れ身を守る者にはより良いものである。おまえたちは理解しないのか。(6:32)
『現世の生活は』
それに気を取られることは。
『遊びと戯れに過ぎない』
一方、服従行為とそれを助けるものは来世の事柄である。
『遊び( la‘ib)』とは、役に立つことから気を逸らせるもので、『戯れ(lahuw)』とは、まじめなことから冗談に気を転じさせるものである。
『来世の住まいこそ』
つまり、楽園である。『来世の住まい(la-al-dāru al-’ ākhiratu)』は、「la-dāru al-’ ākhirati」(つまり、『来世の』は『住まい』の属格)とする読誦法もある。
『畏れ身を守る者には』
多神教を。
『おまえたちは理解しないのか』
それを考えて、そして信じないのか。三人称複数形の接頭辞の「ヤーゥ(y)」で「ya‘qiluūa(彼らは・・・)」と読む読誦法と、二人称の接頭辞の「ターゥ(t)」で「ta‘qilūna(おまえたちは・・・)」と読む読誦法がある。
彼らの言うことがおまえを悲しませることをわれらは確かに知っている。だが、彼らはおまえを嘘と否定しているのではなく、不正な者たちがアッラーの印を拒絶しているのである。(6:33)
『彼らの言う・・・』
おまえに対して嘘と否定するなど。
『・・・ことが』
『・・・ことが(’anna-hu)』の代名詞「ハーゥ(h)」は主題。
『確かに』
『確かに(qad)』は確実性を現す。
『だが、彼らはおまえを嘘と否定しているのではなく』
内心では。なぜなら、彼らはおまえが真実の者であることを知っているからである。派生形第2形『嘘と否定している(yukadhdhibūna)』は、第4形で促音なし(「yukdhibūna」)で読む読誦法もある。つまり、おまえを嘘つき呼ばわりする、ということである。
『不正な者たちが』
(実名詞を)人称代名詞に置き換えたものである。
『アッラーの印を』
クルアーンを。
『拒絶しているのである』
嘘と否定しているのである。
表面上では嘘として拒否していても、内心では嘘と思っていない、ということで、矛盾はない。
おまえ以前の使徒たちも嘘と否定されたが、彼らは嘘と否定され、迫害されたことをわれらの助けが来るまで耐えたのである。アッラーの御言葉に変更はない。おまえの許に使徒たちの知らせは届いたのである。(6:34)
『おまえ以前の使徒たちも嘘と否定されたが』
ここには預言者に対するなぐさめがある。
『われらの助けが来るまで』
彼らの民を滅ぼすことによって。
『耐えたのである』
それゆえ、おまえの民が滅ぼされることによっておまえに助けが来るまで耐えよ。
『アッラーの御言葉に変更はない』
彼の約束に。
『おまえの許に使徒たちの知らせは』
おまえの心を静めるものは。
『アッラーの御言葉に変更はない』『確かにわれらの言葉は遣わされたわれらのしもべたちにすでに下され、彼らには援助者があり、彼らのためのわれらの軍勢は勝利者である』(第37章[整列者]171−173節)、『アッラーは、われとわれの使徒は必ず勝つと書き留め給うた・・・』(第58章[抗弁する女]21節)という使徒に対する約束の言葉に変更はなく、アッラーの御使いの勝利をも裏付けるものである。
おまえにとって彼らの反対が重大ならば、巣穴を大地に、あるいははしごを空に求め、彼らに印をもたらすことがおまえにできるものなら。アッラーが御望みなら、彼らを導きの上に集め給うたであろう。それゆえ、無知な者のひとりとなってはならない。(6:35)
『彼らの反対が』
イスラームに対する。
『重大ならば』
重大事ならば。おまえの彼らに対する切望ゆえに。
『巣穴を』
穴を。
『はしごを』
昇るものを。
『彼らに印をもたらすことがおまえにできるものなら』
彼らの要求に応じて。できるならばしてみよ。おまえにはそのようなことはできない。それならば、アッラーが裁定し給うまで耐えよ。
アル=ハリス・ブン・アーミル・ブン・ナウファル・ブン・アブド=マナーフが、クライシュ族の一団と共にいた預言者の許にやって来て、「ムハンマドよ、昔の預言者たちがしたようにアッラーの御許から印をもたらせ。そうすればわれらもおまえを信じよう」と言った。しかしアッラーは彼らの求めた印を拒絶し給うたため、彼らは背き去った。預言者は自分の民が信仰することを強く望んでいたため、そのことが彼を苦悩させた。この節はそれを契機に啓示された。
『アッラーが御望みなら』
彼らの導きを。
『彼らを導きの上に集め給うたであろう』
だが、それを御望みにはならなかった。それで彼らは信じないのである。
『無知な者のひとりとなってはならない』
そのことについて。
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