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彼らは、天使が彼らを訪れるか、おまえの主が訪れるか、あるいはおまえの主の印の一部が訪れることのほかに待つことがあるのか。おまえの主の印の一部が訪れる日、以前から信仰しなかった者、あるいは信仰において善行を稼がなかった者に信仰は役立たない。言え、「待つがよい。われらも待つ者である」。(6:158)
『天使が彼らを訪れるか』
彼らの魂を召し上げるために。『彼らを訪れる』は、「’in ta’tiya-hum」と女性形接頭辞「ターゥ(t)」で読む読誦法と、「’in ya’tiya-hum」と男性形接頭辞「ヤーゥ(y)」で読む読誦法がある。
『おまえの主が訪れるか』
彼の命令が。つまり、彼の懲罰が。
『おまえの主の印の一部が訪れる』
時(の到来)を示す彼の目印が。
『・・・のほかに待つことがあるのか』
嘘だと否定する者たちは・・・のほかには待っていない。
『おまえの主の印の一部が訪れる日』
それはアル =ブハーリーとムスリムの両『正伝集』のハディースにあるように、太陽が西から昇ることである。
アブー・フライラによると、アッラーの御使いは言われた、「太陽が西から昇るまで(最後の審判の)時は来ない」。
アル=ハーキム・アブー・アブドッラーによると、目に見える印の第一はダッジャール(偽メシア)で、それからイーサーの再臨があり、それからヤアジュージュとマアジュージュ(ゴグとマゴグ)の出現があり、それから獣の出現があり、それから太陽が西から昇ることである(アル=バイハキーの伝える伝承)。これが天界の状態の変化によって予兆される大きな印の第1である。
不信仰者はイーサーの時代にムスリムとなる。イーサーの日々、宗教は一つとなるが、不信仰者の信仰は彼らの役に立たない。イーサーが死に、彼と共にムスリムが死ぬと、不信仰者のほとんどは不信仰に戻るからである。この時、太陽は西から昇る。それを人々が目にした時、地にいる者は信じるが、その時には以前から信仰していなかった不信仰者の信仰は役に立たないし、その前に善行をなさなかった信仰者がその後に善行をしてもそれは役に立たない。
『以前から信仰しなかった』
『者(nafsan)』を形容する文節。
『信仰において善行を稼がなかった』
服従行為を。ハディースにあるように、彼の悔い改めは役に立たない。
サフワーン・ブン・ガッサーン・アル=ムラーディーによると、アッラーの御使いは言われた、「西には扉があり、その幅は馬に乗った者で40年、または60年の道のりで、それは至高なるアッラーが天地を創造し給うた日に創り給うたものであるが、それは悔悟のために開いたままで、そこから太陽が昇る時まで閉じられることはない」(アル=ティルミズィーの伝える伝承)。
イブン・アッバースによると、太陽は昇るところから沈むところに行きつづけるが、アッラーがしもべの悔悟の期限と定め給うた時が来ると、太陽はどこから昇ればよいのか、と許しを求め、月もどこから昇ればよいのかと許しを求めるが、両者ともに許しを得られず、出ることを止められる。そこで太陽は3夜隠れ、月は2夜隠れる。それらが隠れる期間についてはわずかな者しか知らない。それらの者は、時祷(ウィルド、すなわち日課として唱えるクルアーンの特定節)を読む者たち、クルアーン暗唱者たちである。彼らは互いに声を掛け合い、謙り、泣きながらモスクに集まり、夜の残りの間、助けを求める声を上げる。それからアッラーはジブリールを太陽と月に遣わし、彼は言う、「至高なる主はおまえたちに西に戻り、そこから出るように命じ給う。おまえたちにはわれらの許に輝きも光もない」。すると太陽と月は復活の日の恐怖と死の恐怖に泣きながら戻り、西から昇る。その間、人々はアッラーに謙り、アッラーを忘れた者たちはその忘却に耽る。すると呼ぶ者が、「まことに悔い改めの扉が閉じ、太陽と月は西から昇りはしなかったか」と呼び声を上げ、人々はそれらを見るが、それらは包みのように黒く、輝きも光もない。それが『太陽と月は集められた』(第75章[復活]9節)ということである。人々は叫び、母親は子供のことを忘れ、妊婦は胎児を産み落とす。正しい者、敬虔な者の涙はその日、役に立ち、崇拝行為と書き留められる。一方、罪人、悪人の涙はその日、役に立たず、彼らには後悔が書き留められる。それから、太陽と月が空の真中に来ると、ジブリールが来て、それらの角を取ってそれらを西に戻し、それらを悔い改めの門に沈める。それから2つの扉を戻すと、その間を結合し、それらは割れ目も裂け目もなかったかのようになる。それから悔い改めの扉は閉じられ、それ以後はしもべの悔い改めを受け入れない。その後に善行を行っても、それ以前にあったものしか役に立たず、彼はそれ以前にそれをやっておけばよかったと思うが、それは過ぎ去り、過ぎ去ったことが彼に不利に働く。これが『おまえの主の印の一部が訪れる日・・・信仰は役立たない』である。
ウバイゥ・ブン・カアブは言った、「アッラーの御使いよ、太陽と月はその後どうなるのか。人々とこの世はどうなるのですか」。すると、彼は言われた、「ウバイゥよ、太陽と月はその後火獄の輝きをまとい、以前のように人々の上に昇り、また沈む。一方、人々はその後、現世を急ぎ、現世に住まい、川を流し、木を植え、家を建て、そうして太陽が西から昇った後120年間現世で過ごす。その時の1年は1ヵ月に当たり、1ヵ月は1週間、1週間は1日、1日は1時間に相当する」。
イブン・ウマルによると、「イーサーの再臨とダッジャールの後、120年間アラブが彼らの祖先が仕えていたものに仕えるまで(最後の)時は来ない」。
信仰者はその後40年間楽しみ、望んだものは何でも与えられ、それから獣の到来から40年が過ぎる。それから彼らに死が戻り、急ぎ、信仰者は誰も残らず、不信仰者が残り、獣のように道でいちゃつきあい、男と女は道で結婚し、1人が立ち去ると、1人が降り立つ。彼らの最良の者は「道から逸れた方がよい」と言う者である。彼らはこのような状態となり、ついに結婚からは誰にも子が生まれないようになる。それからアッラーは女を30年間不妊にし給い、子供たちはみな姦通の子となり、邪悪な者が人々の上に立ち、時が来る。
『待つがよい』
これらの出来事の一つを。
『われらも待つ者である』
それを。
脅しの命令である。おまえたちのしたいことをするがよい。われらもおまえたちに下される懲罰を見るためにその時を待っている。
彼らの宗教から分かれ、諸派に分かれた者、おまえはいかなる点においても彼らの部類ではない。彼らのことはただアッラーに委ねられ、それから彼は彼らに彼らのなしたことを告げ給う。(6:159)
『彼らの宗教から分かれ』
それにおける彼らの見解の相違によって。その一部を受け入れ、一部を退けた。(動詞派生形第2形『分かれ(farraqū)』でなく)第3形で「fāraqū」と読む読誦法もある(意味はほぼ同じ)。つまり、これは命じられた宗教を退けた者たち、すなわちユダヤ教徒とキリスト教徒のことである。
宗教の一部を退けた者はそのすべてを退けたのである。
『諸派に分かれた者』
そのことにおいて分派に分裂した者たち。
ムアーウィヤによると、アッラーの御使いはわれらの間に立って言われた、「おまえたち以前の啓典の民は72の宗派に分裂した。このウンマはいずれ73に分裂するであろう。72は火獄で、1つは楽園に入る。それは多数派(ジャマーア)である」(アル=ティルミズィー、アブー・ダーウードの伝える伝承)。
『おまえはいかなる点においても彼らの部類ではない』
それゆえ、彼らには反撃するな。
彼らとの戦闘は命じられていない。これは、この節がユダヤ教徒とキリスト教徒のことを意味すると解釈する者の解釈である。この節がこの共同体(ムスリムのウンマ)の妄執と新奇なものに従う者(分派)のことを意味すると解釈する者によれば、この意味は、おまえは彼らとはなんの関わりもない、無関係である、ということである。
『彼らのことはただアッラーに委ねられ』
彼が管理し給う。
『彼は・・・告げ給う』
来世で。
『彼らに彼らのなしたことを』
そして、それについて彼らに報い給う。この節は「剣の節」(第9章5節)によって破棄された。
善行を持って来た者、彼にはその十倍のものがある。一方、悪行を持って来た者はそれと同じだけを報いられるのみで、不当に扱われることはない。(6:160)
『善行を持って来た者』
つまり、「アッラーの他に神はなし(lā’ilāha’illā Allāh)」である。
『彼にはその十倍のものがある』
つまり、10の善行の報いがある。
これは最小の倍数値で、70から700倍、あるいはさらに計算なしで、との約束がある。
『それと同じだけを報いられるのみで』
その報いを。
『不当に扱われることはない』
彼らの報いをわずかにも減らされることはない。
言え、「まことに私の主が私を真っすぐな道、正しい宗教、ひたむきなイブラーヒームの宗派に導き給うた。彼は多神教徒のひとりではなかった」。(6:161)
『正しい宗教』『真っすぐな道』
(前置詞「 ’ilā
...(・・・に)」を伴う動詞『導き給うた』の目的語で属格)の、その構文上の位置で(他動詞『導き給うた』の目的語の対格で)言い替え。
『正しい』
真っすぐな。
『ひたむきな』迷いの道から真っすぐの道に傾倒した。
言え、「まことに私の礼拝も、私の献身も、私の生の場も、そして私の死の場も諸世界の主アッラーのものである」。(6:162)
『私の献身も』
私の崇拝行為も。巡礼、その他の。
『私の生の場も』
私の生命も。
『私の死の場も』
私の死も。
「彼に共同者はない。これを私は命じられ、私は最初のムスリムである」。(6:163)
『彼に共同者はない』
そのことにおいて。
『これを私は命じられ』
唯一信仰を。
『私は最初のムスリムである』
この共同体における。
言え、「アッラーのほかに私が主を求めるというのか。彼こそはすべての主であらせられるのに」。人は誰も稼いだものは自らが負うばかりである。荷を担う者は他の荷を担うことはない。それからおまえたちの主の許におまえたちは帰り、そこで彼はおまえたちが対立したことについて告げ給う。(6:164)
『アッラーのほかに私が主を求めるというのか』
神を。つまり、私は彼のほかに求めはしない。
『彼こそはすべての主で』
所有者で。
『稼いだものは』
罪は。
『荷を担う者は』
罪人は。自分が運ぶ。
『他の荷を』
他の者の荷を。
これは、多神教徒がムスリムたちに、「われらの道に従え。そうすればわれらがおまえたちの過ちも背負ってやろう」と言ったためである。
彼こそはおまえたちを地の継承者となし、おまえたちのある者をある者よりも地位を高め給うた御方。それは、彼がおまえたちに与え給うたものにおいておまえたちを試み給うためである。まことにおまえの主は懲罰に速く、また、まことに彼はよく赦す慈悲深い御方。(6:165)
『彼こそはおまえたちを地の継承者となし』
『継承者(khalā’if)』とは、「khalīfah」の複数形。つまり、おまえたちのある者が地上において別の者を継承することである。
『おまえたちのある者をある者よりも地位を高め給うた』
財産、栄誉、その他で。
『彼がおまえたちに与え給うたものにおいて』
おまえたちに授けたものにおいて。それによっておまえたちの誰が従い、誰が背く者であるかをはっきりさせるために。
しもべの状態に違いを設け、ある者を美しく、ある者を醜く、ある者を金持ちに、ある者を貧しく、ある者を高貴に、ある者を卑しく、ある者を知者に、ある者を無知に、ある者を強く、ある者を弱くし給うた。それはすべての者に均等にすることができないためではなく、無知や吝嗇のためでもなく、試みのためである。与えられたものに誰が感謝し、誰が忍耐するかを試み給うのである。
『おまえたちを試み給うためである』
おまえたちを試すためである。
『おまえの主は懲罰に速く』
背く者に。
『彼はよく赦す』
信仰者に対して。
『慈悲深い御方』
彼ら(信仰者)にとって。
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