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「イスラームと女性」
〜イスラーム的女性解放〜
 

ハビーバ中田香織
「アッサラーム」第65、66号掲載

一般にイスラームは女性抑圧の宗教と信じられている。ここでは、そうした偏見にムスリマの立場から、クルアーンとハディースという2つの聖典に拠りながら反駁すると同時に、今日のフェミニズムにいかに間違った方向に女性たちを導きつつあるかを示したい。

 フェミニズムは伝統的、あるいは宗教的な価値観に則った女性像に疑問符を突き付け、過去の女性たちをその抑圧的な枠組みに閉じ込めて来た「女性たるもの」から解放することを目指す。ただ、そうした運動が過去の価値観を否定し、新たな女性像を思い描くときに根拠としうるものは、当然のことながらなにもない。「女性」のどこまでが生得的でどこまでが文化的かを見極め、女性の本来あるべき姿を探り当てることは困難を極める。
 こうした困難を抱えるのはフェミニストだけではない。神を見失った現代人は、過去の伝統的(宗教的)倫理観を身を引き剥ぐように切り捨て、「自由」を追い求めたが、その結果手にしたのは、糸の切れた凧のような当てもない暴走だった。

 「正しい」ものはなにもない。倫理は拘束性を失い、「時代」が正当化に用いられるようになった。「愛」の形も様々に変容した。結婚から同棲に。異性愛から同性愛に。父と母と子という家族単位は解体し、生涯独身、あるいはシングルマザーに。夫婦の貞操から不倫に。かつて男女の結び付きには子供の誕生が伴ったが、今では生まないという選択肢もできた。ありとあらゆる形が試され、ありとあらゆることが許されるようになったかわりに、どれが正しいのか、どれが自分の幸福になるのかという判断の拠り所を失った現代人は、ただひたすら「愛」という言葉にすがり、「だってそうしたいんだもの。」あるいは「みんなだってやっているじゃない。」と己の欲望と周囲の情報に振り回されながら迷走する。もちろん、今日の選択は明日の後悔、となることも少なくないだろう。

 こうして過去の倫理の束縛から逃れ、新しい性の在り方を追求する者たちに、伝統的価値観の擁護者たちの警告や嘆きは届かない。彼らの言葉はなんら説得力を持たない。根拠がない点では、彼らも伝統的価値を否定する者と同じだからだ。「同棲、同性愛、非婚、未婚の母のどこがいけないのか。なぜ子供を生まないという選択をしてはいけないのか。誰にも迷惑はかけていない。」と言われれば言葉に窮するよりない。若者たちは、外からの価値観を無条件に受け入れていた年齢を過ぎ、時代や場所に左右される伝統的価値観に絶対的な根拠はないのだということに気づいた時、大人たちの欺瞞に憤り、過激な否定に走る。
 これが神を知らない者たちの不幸である。
 
 イスラームの女性観は、多くの点において伝統的女性観と一致している。偏見を持った者の目には、それは伝統的女性観の中でも最右翼と見えるに違いない。イスラームにおいては女性は一人の人間としてより妻として母として規定され、夫に従属し、所有され、個人としての開花を奪われた存在であり、それを端的に象徴するのが女性の身を覆うヒジャーブである、これがイスラームに関する一般的な理解だろう。実際、イスラーム圏の女性の現実を見れば、それを裏付けると思われてもしかたのないような事例が多々見られる。しかし、そのような現実はイスラーム以前の古い男性中心主義的な慣習がいかに根強いかを示すものであり、その唾棄こそ実はイスラームが説くところなのである。いわば、イスラームははるかに時代を先んじたフェミニズムだったのである。ただ、イスラーム的フェミニズムは女を創造し給うた神が説き、推進するものであったから、無知な人間が模索する「女性性」を抑圧するような今日のフェミニズムとはまったく異なった方向性を示している。

 伝統的価値擁護者にしろ新しい価値の推奨者にしろ己の主張の根拠となるものを持たないのに対し、イスラーム的女性観を支持する者には、「それは神がそう創り、そう定められたから」という強固な裏付けがある。

 言うまでもなく、これは信仰のない者には無意味な根拠である。無神論的フェミニストの論駁がここでの目的ではない。ただ、伝統的女性像をヒステリックなまでに否定し、新しい女性の在り方を闇雲に模索し続ける今日の女性たちに、第3の選択としてイスラーム的女性像を選ぶ可能性があることを、ぜひ知ってもらいたい。イスラームが伝統的女性観とも今日のフェミニズムとも違った独自の、そして本来あるべき女性像をはっきりと私たちに示していることを知ってもらいたいのである。

 イスラームを女性抑圧の宗教だと考える者は、今日若い日本人女性が −多くはイスラーム圏からの外国人労働者との結婚を契機に− 続々とイスラームに入信している現象を一体どう捉えるのだろうか。愛する夫の宗教がイスラームだから形式的に入信した、という消極的な受け止め方に留まる女性が大半だろうが、もっと積極的にイスラームを「自分の宗教」として受け入れ、喜々として「自由」を捨て、さまざまな「拘束」に身を任せている女性も無視できない数に上る。これは、もともと彼女たちが夫の具現するイスラームの教えに引かれたためだろうが、さらに言えば(それと重なり合うことだが)彼女たちはムスリム男性の持つ「男らしさ」に引かれたのではないだろうか。男女平等の名のもとに男女の性差が最小限にまで縮小評価され、男としての責任を回避する男性たちに囲まれながら男並みであることを要求される今日の女性たちが、ムスリム男性の「男らしさ」に触れ、それまで自分のうちで押さえ殺していた「女性らしさ」の受け止め手をそこに見いだし、安堵したのではないだろうか。
 男は男らしく、女は女らしく、それがイスラームの教えるところである。


クルアーンとハディースの示す男女の成り立ちと関係

クルアーンによれば、すべてのものは番(つがい)に創られ、夫と妻が慈しみ合うのもアッラーの徴にほかならない。

『大地から生えるもの、彼ら自身、そして彼らの知らないものもすべて雌雄に創り給うた方のいと尊きかな。』(第36章[ヤーシーン]36節)
『彼こそは一個の魂からおまえたちを創造し、そこから妻を造り、彼女の許に安住させ給うた方。』(第7章[高壁]189節)

『おまえたち自身からおまえたちのために同棲する妻を造り給い、おまえたちの間に情熱と同情の心を設け給うたのも彼(アッラー)の御徴のひとつである。』(第30章[ビザンチン]21節)

『おまえたちのうちの独身者、またおまえたちの男女奴隷のうち善良な者は結婚させよ。たとえその者が貧しくとも、アッラーはお恵みによって彼らを富ませ給うであろう。まことにアッラーは広大にして、あまねく知り給う。』(第24章[御光]32節)
『彼女ら(妻)はおまえたちの衣であり、おまえたちは彼女たちの衣である。…』(第2章[雌牛]187節)


「衣」の比喩は、夫婦のエロティックな関係を実に詩的に表現している。また、別の箇所では、妻は畑に譬えられている。
『妻はおまえたちの耕地である。それゆえ意のまま耕地に赴くがよい。』(第2章[雌牛]223節)

女を生殖のための道具とみなし、物質化し所有物化している、と目くじらを立ててはいけない。農夫は畑を精根込めて耕し、種を蒔き、日夜手を入れて慈しむ。ここには夫婦のほのぼのとした牧歌的なイメージがある。

 キリスト教や仏教には、霊的向上、神への奉仕にとって肉の営みは障害であるとみなす考えがあり(パウロ −「男は女に触れないにこしたことはありません。」[コリント第1−7:1]、「未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように一人でいるのがよいでしょう。」[同7:8])、そのように性を厭う宗教は必然的に女性を厭う傾向を合わせ持つが、イスラームには性を否定的に捉える傾向はまったくなく、むしろ、「結婚した者は宗教義務の半分を果たしたことになる」(アル=バイハキーの伝える伝承)という預言者(彼に平安あれ)の言葉が示すように、結婚は信仰生活の重要な一部であり、禁欲的独身主義の方がかえって悪とみなされている。信者の男たちがある時、「私は結婚しない」、「私は肉を食べない」、「寝台で寝ない」などと信仰熱心なあまり禁欲主義的傾向をみせたとき、預言者(彼に平安あれ)は、「そのようなことを言う者がいるとは一体どういうわけか。私は礼拝をすれば眠りもする。断食をすれば食事もする。もちろん女性とも結婚する。私のこうしたスンナ(慣行)を無視する者は私とは関係ない者である。」と言ってはっきり禁欲を否定しておられる(ムスリムの伝える伝承)。














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2003年 アラブ イスラーム学院