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翌日から再び入管事務所に日参しました。「日本に出国する許可を下さい。今回の私の仕事は終りました。出国が無理なら、滞在許可を延長してください。不法滞在は自分の望むところではありません。それに家族が日本で心配している。どうしてくれますか。」同じセリフを繰り返すのみです。
一方、在イラク片倉大使は出国可能な19人の名簿を大統領府に提出し、一日も早い出国許可の実現に奮闘中でした。私の名前も、リストに含まれていました。
ある日の朝、入管事務所の役人が「君の仲間は何処か」と小声で問い掛けてきました。「19人のことですか」「うん」声は出さず、ただ首を縦に振りました。「すぐ来ます。お待ちください」と伝えると脱兎のごとくホテルに戻り、日本大使館、日本人会会長、M社など関係者に「19人を直ちに入管事務所に集めてください」と伝えました。
入管事務所の役人は静かに「日本大使館職員は退場願います」と言います。果たして帰国できるのか? 日本人19人の仲間は咳払い一つ無く、シーンと静まり座っています。「あなたが通訳をしなさい」役人の低い静かな声です。「わかりました」と私は答えます。「さて、ここにいる19人に確認しなさい。関係官庁からの出国許可書を提示しなさい。」「どうしますか?」隣りに座っている日本人会長に尋ねました。バクダッド日本人会長は「それは困る。出国許可書をここに持っている人も持っていない人も居るので。」と、どうしたものかと困った様子でした。
ああ、ここに居る19人は家族から離れ、イラクの建設のために会社を代表して苦労をしてきた人達だ。そして今足止めを食らうとは何たる悲劇か、一瞬激しい思いが胸を突き上げてきました。「絶対に日本に帰らねば」。
「リストに載っているのは業務が完了し、イラク出国を許可されているからです。それにも関わらず貴方は出国許可を再確認なさろうとおっしゃる。おかしいではありませんか。ここにいる日本人が出国許可書を持っていると仮に私がお話ししたとしても、あなた方は信じますか。多分信じては下さらないでしょう。だったらご自身で関係する地方の部署に状況を直接ご確認されるのがよろしいのでは」と静かに話しました。何故か自分でも意識せず、別の自分が諭すように、低い声で、役人に話していました。
どうしたものか、3人の役人は打ち合わせの上、その通りだと納得し、直ちに行動しました。3人は日本人が働いていた官庁や企業が属する州の内務省支所に電話で連絡し、日本人の帰国許可が下りているかどうか確認を始めました。ずいぶん長い時間に思えました。全部の作業が終った時、「出国できるよ」と役人の一人が幾分やさしそうな声でささやきかけてくれました。「ありがとうございます。ご尽力に感謝します。これで家族に会うことが出来ます。皆イラクのために働いてきたのだから」と小声でお礼を述べました。其の後、搭乗までの手順を聞き、それを日本人会長に伝えました。19名は指示に従いアンマン行きの航空券を買うために、米ドル紙幣を持って、航空会社の事務所に向かいました。チケットを入手し、航空会社のバスでバグダッド国際空港に行きました。
18人は空港待合室に入りました。でも私は、出国ゲートを通過できません。何回試みてもコンピューターが許可を出しません。日本大使館から同行された公使も、アラビア語が出来る書記官も出国審査官と交渉しましたが出国許可が出ません。「私が残っても18 人が帰国できればそれでよい」と心に決めました。
私は、内心このような事態を恐れて、滞在許可の延長を申請し、その手続き中でした。したがって、私の出国許可がコンピューターで処理されていないだろう事は想像できました。
出国は認めない、滞在延長も認めない。一体どうすればよいのか。「よし、責任者に会おうと」決心しました。「私の名前は19人のリストに載っています。」「大統領が許可した出国許可を何故あなたは認めないのですか。大統領の命令に反対する理由は何ですか?」と責任者に質問しました。一瞬考えて、責任者の中佐はパスポートと搭乗券に、「パンパン」と三角の出国ビザを押してくれました。
待合室で待機中の日本人の仲間は談笑し、私が出国審査に手間取っていても誰一人気にとめる気配はありません。全員アンマン行きの飛行機に乗りました。最後に私も着席しました。上空から見た砂漠は何事もなかったように大きく広がっていました。機内では飛行機が本当にアンマンに行くのか、半信半疑でした。
それに未だ大勢の日本人が出国できず残っているのが気がかりです。大統領府の発効した出国条件に従って一人残った同僚Iの帰国に必要な書類は既に準備し、後を彼に託してきました。吉報を待とう。そう心に思って、同僚Iが作ってくれた握り飯を同僚Wと一緒に飛行機の中で食べながら深く息を吸いました。
アンマン空港に着いたときも、成田空港についたときも、報道のインタヴューに応じる気分にはなりませんでした。イラクに残った同僚のことをおもんぱかり、更に大勢の同胞が出国を待ちわびているさなかに、不用意の発言が事態を悪化させることを恐れましたし、他の人達にも一層慎重な対応を心から願っていました。なぜか苦々しい気持ちで、日本につきました。
「大丈夫。近いうちに帰る事が叶うでしょう。」と帰国後直ちに同僚Iの奥さんに電話で伝えました。彼は約2週間遅れで帰国できました。日本の新聞は同僚Iの日本帰国を小さな記事で報じました。そのとき初めて肩から重みがおりて、ほっとしました。
日本に帰国すると、家族や友人そして会社の人達は無事を喜んでくれました。ああ皆さんに大変ご心配をかけたと、胸が痛みました。
故郷に両親を訪ねました。「もう怖いところには行かないで」と訴える両親を思う時、いつも心が痛みます。そして湾岸戦争終結後1年、クエート政府が出した新聞広告「支援した国々に感謝」の中に、日本国の名が含まれていませんでした。
平和でなければ、プラント建設は出来ない。一人でつぶやきました。
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