アラブとの30年 その2
 

【日本に石油を】
 

1972年から74年末まで約3年間、サウジアラビアの首都リヤードの近郊、ハルジュ道路20kmで製油所建設に従事しました。現在は、道路の両脇は建物が立ち並び、首都からの町並みが続いていますが、当時は町外れで住む人も無い砂漠でした。

30年前の当時、世界の石油市場はメジャーオイルの寡占状態でした。産油国の原油売り渡し価格はメジャーの言い値で決められ、ガソリンや潤滑油などの石油製品は、メジャーオイルからの輸入に頼っていました。自由に自分たちの石油を使いたい。そのために何とか自前の製油所を持ちたい。これがアラブ産油国の夢でした。

しかし製油所建設には、技術は勿論建設に必要な外貨が必要です。必要な外貨手当ては欧米からの借款に依存せざるを得ません。欧米は、借款の見返りに色々難しい条件をつけます。欧米の民主主義システムは、アラブ諸国の民主主義システムとは異なります。欧米のシステムに組み込まれることなく、経済発展をとげたい。そこで考えついた方法は、日本の技術と資金でプロジェクトを実現することでした。原油売却代金を建設資金に当てる構想でした。産油国のオイルを消費国日本がメジャーを介さず直接購入する、DD取引の最初のケースとなりました。

1972年6月に現地工事が始まりました。現場建設は常に戦場です。最初の仕事は外部の侵入者から安全を確保するために、敷地内を有刺鉄線で囲みます。生活及び建設に必要な水を確保するために井戸を掘ります。次に発電機をまわし電気をおこします。トイレを作り、事務所を作り、木造プレハブ宿舎を完成します。所員の健康のために、大きな風呂をボイラーで沸かします。当時はマージャンが娯楽の主流でしたからマージャン部屋やセットも準備します。ベッドや机の調度品を作る木工所を探し、製作を依頼します。自動車を調達します。こうして約200人の日本人村が出来上がります。日本から持ち込んだプレハブ住宅は機密性に欠け、砂嵐の細かい粒子は容赦なく部屋に入り込みます。目張りをしても防ぎようがなく、夜は目に砂埃が入らないためにサングラスをかけて眠りました。日本製の発電機も暑さに弱く、屋根を架け、水をまいて冷やして、ようやく規定の60%ほどの発電能力が出ました。結局外国製のリリーフを仰ぎました。

建設現場では事務所の開設と閉鎖が最も重要な業務といわれています。現地スタッフの採用、仮事務所の借り上げ、車の手配、指定病院の決定、会社登録、外国人スタッフの就労許可、労働事務所への連絡、調達可能な資材の調査、下請け業者の選定、本社との通信手段の確立、など作業は山積しています。キャンプで日本人が宿舎生活するわけですから、24時間、所員の安全確保を図らなければなりません。食事、休息、娯楽、健康、安全が整って士気の高揚が保たれます。やがて日本人は、約3000人の多国籍労務者を指揮、監督し、技術移転を図り、世界最先端の設備を誇る精油所は完成しました。近代的な石油精油所は、その後更に規模を増設し、現在も無事故で操業を続けています。

現場で働く日本人は言葉も荒く、現場作業で、もたもたしている現地作業員を叱咤激励します。連携プレイが出来るまではケガはするし、事故を防ぐ手立てもありません。揉め事は日常茶飯事です。日本人とアラビア人は、どちらも誇り高い民族です。ある時、日本人監督が「馬鹿」とどなったら、「バカル」(牛)呼ばわりするとは何事だ。動物扱いするのはけしからん、と両者はもめました。その後、怒鳴りたくなったら、一呼吸おいて「アホウ」(兄弟)と言いなさいと日本人に伝え、現場も落ち着きを取り戻しました。

そんな中、1973年、第一次石油危機が世界を震撼させます。三木特使がサウジアラビアに派遣されます。アラブにとって、日本が友好国かどうか、議論の分かれるところでした。日本をアラブの友好国として認め、原油を供給してほしい、これが目的です。アラブ首脳は日本を友好国と決定していませんでした。サウジアラビアはその鍵を握る重要な国でした。

特使一行は、会談の間に一息入れ、建設現場を訪れる予定であると、サウジアラビアの王室儀典局から連絡が入りました。現場では、昼食を召し上がってもらうことに決まりました。当時リヤードには日本食を食べさせる店はありませんでした。本社からも、T社長が急遽現場に来て、特使をお迎えする手筈となりました。

当時技術者社長Tは、先端技術の力で、オイルショックを防ぐことは可能であると、国産の技術開発を促進していました。つまり、重い原油を化学分解する事によって、ガソリンなどの製品を多く精製することが、石油危機の解決の道であると説いていました。その技術交流をアラブ産油国と共に進めていました。そんな真摯なT社長の名はアラブ諸国の石油業界では行き渡っており、アラブ世界からは真の友人として認められていました。モービル、エクソンなどはそんなT社長を評価し、日本の一企業が技術開発に多大な投資をしている様を、賞賛し、そして嫉妬していました。技術の開発は我々先進国の得意分野だといわんばかりに。

さて、日本人コックは、限られた日本からの食材と現地調達の食材を使い、精一杯の昼食を用意しました。「お疲れでしょう。日本のために是非とも交渉が良い結果でありますように」とT社長が三木特使を労いしました。T社長は後で、「特使は握り飯を3個も美味しそうに食べておられた、健啖家だね」と語っていました。

三木特使と技術者T社長は、共に「油の一滴は血の一滴」と、戦前戦後を生きた方ですから.肝胆相照らし、互いに尊敬の念に溢れる挨拶を所員に披露しました。所員は、自分たちが建設しているプラントが日本のエネルギー安定供与に役立っていることがうれしく、感激を隠せません。「がんばろう。品質のよいプラントを、納期通り、きちんと収めよう、それがアラブと日本のためだ、」と互いに心に誓いました。石油危機勃発の前には、当時の中曽根通産大臣の訪問を受け、「諸君は日本のために前線でがんばってくれ、自分は参謀本部だ。」と励まされました。

後で漏れ聞くと、現在の第五代ファハド国王(当時内務大臣)が、第一次石油危機の際、日本に対し友好的な処置を講じるために、随分とお骨を折ってくださった由です。それから時が経ち、1979年第二次石油ショックが起きます。

21世紀の今日、中国、インドが目覚しい経済発展を遂げ、資源やエネルギーの安定確保の為にアラブ諸国に熱い眼差しを送っている中、2000年、アラビア石油の採掘利権は更新しないと日本の新聞は報道しました。

わが国は石油の一滴は血の一滴と叫び、太平洋戦争に突入し、そして敗戦しました。戦後ようやく自前の石油を手に入れ経済発展した日本は、50年後、採掘利権という先人達の残してくれた友好の証、国際協調の形見を、蜃気楼のごとく消し去りました。石油はもはや金さえあれば手に入る。日本は経済大国だ。調達は自由だ。何も恐れることは無い。サウジがだめなら、イランがある、と日本の新聞が論調します。

太平洋戦争に敗戦した前の年、「戦闘機の燃料だ。がんばって掘れよ」と、大人達に混じって、松の木の根を掘ったことが昨日のことのように思い出されます。


執筆:片山 廣
アラブ イスラーム学院顧問

 

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