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彼はムハンマド アルマハディー イブン アルマンスールで、彼の父はアルマハディーを次代カリフに推薦し、ヒジュラ暦141年には15歳という年齢でフラーサーンに向かう軍の指揮官に任命されました。そしてヒジュラ暦147年には彼の父は彼を次代カリフに任命し、さらにイーサー イブン ムーサーより優先しました。また彼の父はヒジュラ暦151年に彼とその兵士たちのためにバグダードの東部に位置するラサーファを建てました。同様にヒジュラ暦153年にはハッジの引率を任せ、ヒジュラ暦155年にはバグダードの建築形式でアッラーフィカの町の基礎をつくりました。彼の父親はなくなるまで様々なことに関してアルマハディーを援助し続けました。
アルマハディーはぶどう酒を飲みませんでしたが音楽を聴いていました。また性格的には恥じらいがあり、よく人を赦しました。ですから彼のもとに議論を持ちかけてくるものがいてもその者を赦したものでした。またクルアーンによく心を動かされました。彼は公正なカリフで、不当に扱われた人々の不平を裁判官とともに自ら聞き、自分より他人を優先して人々から不正を取り除きました。アルマハディーは公正さと優しさ、赦すこと、同様に寛大さと雄弁さにおいて他の者たちより優れていました。
またアルマハディーは預言者のスンナを守ることに熱心でスンナに背くことを好みませんでした。
人々の暮らしはアルマンスール統治下の日々に比べて豊かになりました。
彼が政権を担うとまず最初に政治犯の恩赦を行いました。犯罪や、そのたの住民の権利にかかわる罪人たちはそのまま牢獄に残されました。
国内改革に関してはマッカへ続く道に城を建設し、また灌漑を容易くするために、すべての場所に井戸水で満ちた貯水タンクを作ることを命じました。またアルマディーナとマッカとアルヤマンをつなぐ郵便制度を確立しました。
また彼はハラムモスクの拡張を行いました。
外交情勢に関しては、バグダードのカリフとアンダルスのアブドゥッラハマーンの関係は残念ながら良好ではなく、アルマンスールとアルマハディーはアブドゥッラハマーンが建てた国家を取り除くことに熱心でした。フランク王国のシャルロマーニュはこの機会を絶好のチャンスだと思いました。というのも彼は西ローマ帝国復興を目論んでいたためでした。そこで彼はイスラームのカリフからの力を得て、それによりコンスタンティノープルのローマ皇帝に対して彼の立場を向上させるために、アンダルスの長への攻撃によってアルマハディーに近付きました。
またアルマハディーとローマ皇帝との関係は険悪で彼らの間には陸・海による双方からの攻撃が常に行われていました。
ヒジュラ暦163年にはアルマハディーはアッサーイファのことで宴を開き、それに関して息子のハールーンに任せることにしました。
アルマハディーはイーサー イブン ムーサーから次代カリフ権を取り上げ、それを彼の息子のムーサー アルハーディー、それからその後息子のハールーン アッラシードに委ねました。
ヒジュラ暦169年アルマハディーはグルジアへの道中にあるアッラウズと呼ばれる村で亡くなり、彼とともにいた息子のハールーンが彼のために祈りました。
親愛なる読者のみなさん、次回はカリフ アルハーディーと彼の行ったことについて紹介します。またお会いしましょう。
執筆:リハーブ ザハラン
アラブ イスラーム学院講師 |
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