アッバース朝の歴史
 

【アッラシードとヨーロッパ、ローマの関係の続き】
 

アッラシードとヨーロッパの関係:
アッラシードとヨーロッパ、あるいはフランク王シャルルマーニュの関係について言えば、シャルルマーニュは東方において自分の立場がニケフォロス1世より上位にあることを望みました。同様にシャルルマーニュはアンダルスにおけるウマイヤ朝との戦いに有利に働くようにアッラシードの満足を得ようとしました。また、ムスリムたちのもとにある科学からの利益を得ることを望んでいました。当時のヨーロッパは科学の火が消えた暗黒時代を迎えており、イスラーム国家ではそれがバグダードであれアンダルスであれ反対のことが起こっていました。シャルルマーニュは国家の法律をハールーン アッラシードに倣って改善しました。

またイスラーム諸国で学んだユダヤ教徒の医者たちがヨーロッパへ行きました。彼らの中からシャルルマーニュはイスハークという名の男を選び、贈り物とともに彼をアッラシードのもとへ派遣しました。4年後イスハークは贈り物をもったアッラシードの使者3人とともに帰還しました。その贈り物とは時計・象・高価な布でした。シャルルマーニュの家来たちが時計を見た時、彼らはそれを魔法のようなものだと思い、それを壊そうとしてローマ皇帝に止められました。このとき彼らはイェルサレムに巡礼に行くキリスト教徒たちの庇護に関することに合意しました。

アッラシードとローマの関係:
アッラシードとローマの関係に関して言えば双方の間で戦いが収まることはなく、とうとうエイレーネー女帝はアッラシードに人頭税を払うという条件で停戦協定を求めました。これは彼女がムスリムたちの強大さを目にし、彼らと戦うことが不可能だということを悟ったこと、そしてその国土を広げようと試みるシャルルマーニュを考慮してのことでした。その後彼女を王座からひきずりおろしたニケフォロス1世はエイレーネーから得た財産をすべて戻すようにアッラシードに書状を送り、それを行うかあるいは戦争かと迫りました。それに対しアッラシードは有名な次の言葉でそれに返しました。「慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において。信者たちの長ハールーンからローマの犬二ケフォロスへ。そなたの手紙はすでに読んだ。そして答えは聞かずともそなたの目の前にある。そなたに平安あれ。」それからアッラシードは皇帝に対し進軍し、そこを開放し、戦利品を得ました。とうとう二ケフォロスは毎年地租を支払うことを条件とした停戦協定を要請しました。アッラシードはそれを受け入れましたが、二ケフォロスはアッラシードが帰るとその協定を反故にしました。それを知ったアッラシードは再び攻撃を仕掛け双方の戦いはとどまる事を知らず、ヒジュラ暦189年にはムスリムとローマの間のフィダー(お金を払って捕虜を釈放させること)が行われ、フィダーが行われたムスリム以外はローマの地にムスリムは残りませんでした。これはムスリム・ローマ間でおこなわれた最初のフィダーでした。

一般的にアッラシード統治下のローマに対するムスリムたちの強大さは、アッラシードが自ら戦いに参戦したこと・偉大な将軍たちやアラブ・非アラブ・フラーサーン出身の勇敢な者達がいたことからも明らかでした。

アッラシードがなした偉大な功績の一つに国境沿いの地域を整備し、分裂していたそれらの地域を一つの州にまとめました。そしてその地域の州都をユーフラテス川上流のマンバジュとしました。

読者の皆さん、次回はアルバラーミカ家の災難とアッバース朝第5代カリフ ハールーン アッラシードの最後について紹介していきます。それではまたお会いしましょう。


執筆:リハーブ ザハラン
アラブ イスラーム学院講師


(→バックナンバー
(→週刊アラブマガジンのトップ


 
↑UP↑

前に戻る


アラブマガジンへもどる

 

アラビア語カフェ | アラブ イスラーム学院 | サイトマップ | ヘルプ



2005年 アラブ イスラーム学院