アッバース朝の歴史
 

【アルアミーンとアルマアムーン】
 

アルアミーン:
彼はムハンマド イブン ハールーン アッラシードで彼がアッバースカリフに就任していたのは約3年8ヶ月でした。この期間はアルアミーンとアルマアムーン兄弟の間の多くの問題と混乱で満ちていました。これらの問題の原因はアッラシードが彼ら3兄弟に対して行った次代カリフ指名の制度によるもので、この制度はアッバース朝のカリフたちの間に起こった大きな間違いでした。そしてアルアミーンはヒジュラ暦198年に殺害されました。

アルマアムーン:
彼はアブドゥッラー アルマアムーン イブン アッラシード イブン ムハンマドアルマハディーでヒジュラ暦198年(西暦832年)に彼の兄弟であるアルアミーンの後にカリフに就任しました。
アルマアムーンは性格的に赦すことを好み、復讐を嫌う傾向にありました。ですから彼は自分に敵対する者を援助した者たち全員を赦しました。
また彼は見た夢により自分の国の役人たちに関するすべてを知っており、人々の見せかけに騙されなかった人でした。
彼は論争において相手を説得することを好み、自分と反対意見の者と協議し彼の確証をあきらかにしたものでした。
同様に彼は詩の良し悪しを理解する文学者でもあり、彼が気に入った者には膨大な報酬を与えました。そのため彼の時代には詩人たちや文学者たちが多く現れ、以前には例を見ないほど寛大に扱われました。

アルマアムーンの時代はイスラーム文明の黄金時代とみなされています。その文化レベルは高く、アルマアムーンは学者たちや文学者たちを奨励し、様々な学術施設、また病院や展望台を建て、同様に翻訳も奨励しました。

また彼の時代にアッバース朝への抵抗の動きを見せた者たちを完全に駆逐しました。
またイエメンのズィヤード朝やフラーサーン領国などのアッバース朝の幾つかの隷属諸国の独立が起こりました。
またヒジュラ暦3世紀の初頭アルマアムーンの時代にムスリムたちはシチリア島を開放しました。これはアサド イブン アルフラートというムスリムの将軍によってヒジュラ暦212年に行われ、アンダルスにいたムスリムたちが困難な時には彼を援助しました。

アルマアムーンは彼が亡くなる前に兄弟のアルムウタスィムを次代カリフとして指名しました。彼は二人以上にそれを行うという過ちを犯しませんでした。そしてアルムウタスィムに次の遺言を残しました。「アッラーを畏れ、彼の罰を恐れ、カリフの仕事をせよ。アッラーにはごまかしは効かないのだ。与えられた猶予に囚われてはならない。あたかも死が迫っているかのように心せよ。一に民衆、二に民衆、三に民衆のことを忘れるな。近親者だけでなく一般の民衆を忘れるな。支配権は彼らによって、そしてムスリムたちとの契約によってそなたのもとにある。そして彼らの利益を心せよ。ムスリムのためになることを禁じたりせず、彼らの利益になることを己の欲望に優先して第一に与えなければならない。人々に対し公正であれ。彼らの能力以上のものを求めるな。彼らに近くあれ。そなたのもとにある民たちに注意し、何時も彼らのことを忘れるな。」

彼(アッラーよ彼に慈悲を垂れたまえ)の死についていえばヒジュラ暦218年に対ローマの戦いのさなか亡くなりタルトゥースに埋葬されました。彼のカリフ職は約20年と5ヶ月でした。

次回はカリフ アルムウタスィムについてお話しましょう。


執筆:リハーブ ザハラン
アラブ イスラーム学院講師


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