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誠に羨むべきことに、スペインの人々は周りを水と緑に囲まれて暮らしており、
仕事と楽しみの両方の充実に長けています。また彼らは社会的慣わしから互いに
よく挨拶を交わします。たとえば、もしあなたが建物の入り口で人に会ったな
ら、その人はいち早く、「hola(ahlan):ようこそ」とあなたに挨拶することで
しょう。それがもし知り合いだったら、彼は「que tal」(お元気ですか? と
いうような意味)と付け加えます。まだ誰でもその場を立ち去ろうとする時に
は、「hasta luego」(また会う日まで、というような意味)と繰り返し言います。
朝7時に陽が昇り、夜10時に陽が沈む夏季には、人々はみな公園やカフェテラ
スや、海や山などの行楽地へと向かい、アッラーから恵まれた魅惑的な自然を堪
能します。そこでは豊かな緑が、水やスペインの人々の美しさと良く調和しあっ
ています。それに加え、そこには、自国の悪天候や日頃の仕事のストレスや勤労
から逃れ、スペインで年に一度のバカンスを過ごすために近隣諸国から訪れた何
万人もの観光客の笑顔もあります。
彼らはスペインで太陽の光溢れた日々と、澄み渡った青空を見出すのです。そし
てそれは彼らをスポーツへと誘い、国内では出会うことのない友人たちとの新し
い社交へといざないます。そのためそれらの観光客は、カフェテリアやレストラ
ン、またゴルフ・テニス・ウォータースポーツなどのクラブで落ち合い、その顔
には笑みが溢れています。これらのスポーツクラブに足繁く通うアラブ人観光客
を見かけることは滅多にありません。私たちの仲間の多くは、ショッピングモー
ルやレストラン、またさまざまな種類の社交場を好みます。
コーヒーを飲みながら新聞でも読もうとふらっと家を出て、近所の通りをぶらぶ
ら歩くのも、ここでの夏の楽しみの一つです。特に私の場合、その散歩の途中で
10歳になる隣の女の子に会うのが、すっかり毎日の習慣になりました。彼女は
いつも、「hola, buenas dias senor」(ようこそ。おはようございます、セ
ニョール。)と、天使のような笑顔で私に挨拶をしてくれます。私は彼女にマ
ディーナのデーツ(ナツメヤシの実)などのお菓子をいつもあげるのですが、そ
うすると彼女は、「gracias senor」(ありがとうございます、セニョール。)
と言ってそれを受け取るのです。彼女の輝く笑顔で一日が始まるときにはいつで
も、私は何かいいことがあるような気がしたものでした。しかし、その笑顔が昨
日突然失われてしまったのです。私たちはいつものように近所の公園で会いまし
た。すると彼女は悲しげな顔で私の方へやって来ました。いつものようにお菓子
を欲しがって私に近づくのをためらう様子で、ともすれば私から離れていきそう
な感じでした。そこで私がその悲しげな顔の訳を尋ねると、彼女はこう言いまし
た。
「あなたにはその訳がわかりませんか? 私はあなた方が罪のない人たちを脅か
したり殺したりする殺人者の仲間だったなんて、知りませんでした。あなた方は
今でも、あなた方の国旗に描かれている剣で人の首を刎ねています。あなた方は
列車を爆破して、スペインで私たちに、そして昨日はイングランドで多くの人た
ちに、痛みと悲しみをもたらしました。あの列車の中にはたくさんの子供や男の
人や女の人が乗っていて、その多くが亡くなり、何百人という人が病院にいるの
です。」
私は少女の手を取って、プールのそばのベンチへ連れて行きました。すると彼女
の怯えはおさまり、やっと私からお菓子を受け取ってくれました。昨日ロンドン
で起きたことの責任を私個人に負わせるものではない、ということの確認とし
て。そこで私は、その痛ましいニュースを彼女がどのようにして知ったのか、ま
たそのニュースを知って彼女の両親はどう思ったのか、話してくれるように彼女
に願いました。すると彼女は次のように話しました。
「私は両親と一緒に、殺された人たちや怪我をした人たちが救急車で運ばれるの
をテレビで見ました。そして私は、自分があの列車の中で命を落とした女の子の
一人だったら、と想像しました。お母さんはきっと私を失ってひどく泣くでしょ
うし、お父さんは涙を隠すことはできても、怒りを隠すことはできないだろうと
思います。その時、お父さんに私を取り戻すどんな力があるでしょうか? 殺人
者たちを連れてきて裁きを受けさせるどんな力が彼にあるでしょうか? たとえ
そうできたとしても、彼らに相当な懲罰を与える力が彼にあるでしょうか?
この深刻な心の痛む想いの中で、私は一体どれぐらいの時を過ごしたかわかりま
せん。それからお父さんはお母さんに向かってこう言いました。
『アラブ人やムスリムは、殺人を何とも思わず血を好む者たちだ。我々は、彼ら
とその裏切りから決して安全ではいられない。』
でもお母さんはこう言いました。
『一つの判断を人々全体に当てはめるべきではないわ。それに、エタ(ETA)・
イスパニアが長年してきた殺人や流血を忘れないで。』
そこで私はお父さんに、『バスク人はアラブ人でムスリムなの?』と訊いてみた
のですが、お父さんは私に、大人の話に立ち入らないで黙っているように言いま
した。
お母さんはさらに話を続け、2年前、アメリカとイングランドの戦闘機がイラク
の多くの都市や村を破壊するのをテレビで見た、と言いました。一体どれだけ多
くのイラク市民が殺され、また負傷したことか、と。そして、イラクで起きた、
そして今もパレスチナで起きている殺人や追放、そして土地や農地の破壊を見て
きて、お父さんや西側世界の人たちは一体どれだけ変わったというのか、とお母
さんは訊ねました。
お父さんはそれに対し、あの戦争を批判して平和を呼びかけるためにヨーロッパ
諸国の多くの首都で行われた巨大なデモのことを取り上げ、我々はできる限りの
ことを充分したのだ、と付け加えました。
しかしお母さんはこう言いました。
『あのデモは中東の悲劇を何も変えはしなかったわ。状況がそのままである限
り、ロンドンやここマドリードやニューヨークで起きた殺人は続くでしょう。私
たちが真剣さに欠け、中東問題のさまざまな原因に関して無知でいるために、過
激派や憎しみを持つ者たちが明るい未来への希望を失った若者たちを武装化する
機会を与えてしまっているの。若者たちは、この世での人生の悲劇に終わりを告
げて、天国の門で天使たちに出迎えられることを望み、自殺行為へと走るの
よ。』
するとお父さんはどうやらお母さんへの返答に困ったようで、これ以上話をしな
いでくれと言い、そして近いうちにベツレヘムに住んでいるお母さんのおじいさ
んのところを訪ねてもいい、と言いました。」
そしてこの小さな隣人は私に、ベツレヘムを知っているか、それはどこか、と尋
ねました。大人の話に立ち入らないように父親に言われたので、そのことを彼女
は訊けなかったのです。そこで私は彼女に、ベツレヘムはパレスチナの聖なる町
で、そこで清純なる処女が息子イーサー(イエス―彼に平安あれ)を産み、今はイ
スラエル軍に占領されているのだ、と答えました。
私は少女に母親の名前を訊ねてみました。すると彼女は、「マルヤムです。」と
答えました。その時私は始めて、その隣人女性がスペインで生まれたパレスチナ
人であり、その父親が1948年の戦争(*第1次中東戦争―パレスチナ戦争)
後に祖国を離れた最初の人たちの一人だということを知ったのです。彼は第2の
祖国としてスペインを選び、そこで結婚して子供をもうけたのでした。
ヒジュラ暦1426年 ジャマーディ=ッサーニー月 3日―マドリードにて
筆者:モハンマド バシール クルディー
前駐日サウジアラビア大使
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