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ヒジュラ暦1383年(*西暦1963年)のラマダーン月を、私と家族は東京
で過ごしました。それは私たちにとって、身内から遠く離れて非イスラーム国で
過ごした始めての断食月でした。
当時ラマダーンとは何か知っている日本人はごく僅かでした。そしてラマダーン
月には一ヶ月間、神の命じられたことに応えて日の出前から日の入りまで飲食を
しないのだと知ると、彼らは驚いて息を呑み、私たちの気持ちを思いやって、自
分たちの前にある食べ物や飲み物を遠ざけたものでした。それは彼らの他者に対
する礼節の深さを示すものです。
そんな人々の中に、東京新聞の経済研究者がいました。彼は私たちと交流を持つ
ため、またサウジアラビアの経済と五カ年計画についてより多くの情報を得よう
と、大使館を訪れたのでした。
彼は私のオフィスへ向かう途中、受付の職員のところで立ち止まってしばらく彼
と話し、そして入室許可を求めてから私のところにやって来ました。そして真っ
先にアラビア語で、「ラマダーン・ムバーラク。」と言いました。それから椅子
に腰掛け、ラマダーン月について尋ねました。私たちムスリムが、イスラーム国
でない外国にいても断食をしなければならないのか? 断食の教えにはどんな英
知があるのか? すべてのムスリムが断食しなければならないのか、あるいは例
外があるのか……? 等々、次々と質問が飛び出し、それに答えが続きました。
そして彼は私たちのディスカッションを速記で記録しました。
彼はその1週間後に再び大使館を訪れました。彼はその時疲れた様子をしていま
したが、顔には笑みが見えました。そこで私が彼の健康について尋ねると、彼
は、前回大使館を訪れた日の翌日から、ムスリムの暮らしを体験するべく、断食
を試みているというのです。それで彼は日に14時間近く飲食を止めていたので
した。
断食の一日目はとても辛かったと彼は言いました。朝いつもお茶を飲む時間にな
ると頭痛がし、昼の12時になると―つまり昼食の時間です―空腹に悩まされ、
日の入りが近づく時間には、時計の針がなかなか進んでくれなかった、と。
彼はすんでのところで断食しようという考えを変えるところでしたが、実験は発
明の母であるということを思い起こしました。彼は自分自身の中に別の個性を作
り上げようとしていたのです。日本と経済関係で結ばれている数十億のムスリム
の考えや暮らし方をより深く理解するために。
彼は私たちと断食を全うしました。そこで私は彼に、東京モスクでイード=ル=
フィトル(断食開けの祭り)の礼拝を見学しないかと誘いました。するとその日
彼は朝早くからやって来て、ポケットからウドゥー(浄め)や礼拝の仕方が記さ
れた小冊子を取り出してそれを丹念に読み、そして礼拝にやってくるムスリムた
ちの顔を観察していました。彼らの大部分は、母国が共産主義に支配されて以
来、日本を避難地に選んだ中央アジアのムスリムたちでした。
やがて礼拝の呼びかけがあると、彼は私の横に立ち、礼拝の動作を行いました。
それからトルコ語と日本語で行われたイードのホトバ(導師の説教)を聞き、私
たちがするように抱擁を交わしながら、「イード・ムバーラク」の言葉を繰り返
しました。
彼は私のところにある英語で書かれたイスラームについての本を読みたがってい
たので、それから私たちは家へ帰りました。
その後も私たちは時々会いました。私は彼を当時日本ムスリム協会の副会長だっ
たアブドゥルカリーム斎藤博士に紹介し、2人の間には強い友情が育まれまし
た。その後この友は、日本ムスリム協会をしばしば訪れるようになり、彼らの集
まりに参加したり、また彼らの客人である、日本を訪れる外国のイスラーム関係
者たちとも会うようになりました。
こうして、イスラーム世界の問題やその経済事情や、日本の産業・経済を動かす
エネルギー資源を供給しているわが国に対する彼の職業的関心は、ますます大き
くなっていきました。そしてやがて多くの書店で、エネルギー資源とアジアにお
けるその生産国について書かれた彼の本や経済研究が姿を現すようになりまし
た。そしてその内容は、すべての経済的・人道的分野において、エネルギー生産
国と日本との強い協力が必要である、という点に集中していました。
やがてこの友がイスラーム入信を宣言する日がやって来ました。彼はそれ以来、
日本ムスリム協会の活動的なメンバーとなり、ハッジ(巡礼)の行を果たし、わ
が国の多くの経済ジャーナリストたちと会いました。特に、中東で数々の決定的
な事件が起きた時期―その最も重要なものはアラブ人とムスリムが1967年に
聖エルサレムを失った大災難です―に、彼は頻繁にわが国や近隣のアラブ諸国を
訪れました。
それらの事件は日本人にエネルギー資源安全確保への不安をもたらし(*オイル
ショック)、それによってわが友は、エネルギー資源や日本と産油国との関係、
そしてサウジの石油供給についての専門家として、彼に適した地位を得たのでし
た。
それから多くの事件が続き、6日間戦争によって貶められたアラブ・ムスリム共
同体の尊厳を少しでも取り戻すために、やがて聖ラマダーン月にバルリーフ線
(*イスラエルの要塞線)が突破されました。そしてアラブの石油はその戦いに
おいて大きな役割を担ったのです。
わが友はアラブの権利を擁護し、パレスチナにおけるパレスチナ人の権利とその
建国を支持するよう、日本に呼びかけました。パレスチナ人の安全は日本人に
とっての安全であり、中東地域の安定は日本にとっての安定なのだ、と。
それからずっと後のことですが、2大聖地の守護者、ファハド・ビン・アブディ
ルアズィーズ国王―アッラーが彼に慈悲を垂れ給いますように―は、私を日本で
の親善大使に任命なさいました。そしてその任期中に私は天皇陛下とお会いする
栄誉をいただき、そこで、私が昔過ごした日本での思い出についての話になりま
した。その時私は、陛下が数ヶ月前にわが友をお呼びになり、彼から私たちの国
サウジアラビアについて多くのことをお聞きになったのだ、と聞かされました。
陛下はわが友のイスラームについて知っておられ、また34年前の最初の出会い
以来私たちをつないでいる友情についても、ご存知だったのです。
この聖月(ラマダーン)が来るたびに、その思い出は私を懐かしの日々へと引き
戻し、今なお愛と誠をもってわが兄弟であり友である、エネルギー資源の経済
ジャーナリスト、アブドゥルアズィーズ最首(公司)氏を、良い想い出と感謝の
気持ちをもって思い出すのです。
マドリードにて―ヒジュラ暦1426年(西暦2005年)ラマダーン月8日
筆者:モハンマド バシール クルディー
前駐日サウジアラビア大使
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