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私はその人物のことをスウェーデン在住のアラブ人たちから聞きました。彼は
スウェーデンへの最も古いアラブ人移住者で、まだ若い頃、第2次世界大戦時代
にスウェーデンに来て、スウェーデン人女性と結婚したのだそうです。それに
よって彼は、今日、スウェーデンで最も豊かな富と強い地位を所有する人々の一
人となったのでした。
彼は政治家、財界人、メディア関係者など国内の指導者たちを始め、ストック
ホルム在住の諸外国の外交官たちとも親交を持っており、大使たちだけではな
く、二級の外交官たちのためにも、その着任や離任にあたってパーティーを催し
ます。考えや信条の反する人々に対しても、彼は謙虚にそして温和に話をしまし
た。
私が彼と知り合ったのは―もう35年も前のことですが―、アラブのある大使
の家で催されたラマダーンのイフタールの食卓でのことでした。私たちはそこで
名刺交換をし、アラブ情勢について色々と話し合いました。
その後私は、スウェーデンに来た人の歓迎や、帰国する人の送別のために催さ
れたパーティーへの招待を彼から何度か受けました。それらの人々の中にはヨー
ロッパ人もアジア人もアフリカ人もいました。
彼から届くすべての招待状には、正装で参加するように書かれていました。
(男性はブラックタイ、女性はドレス着用)そしてどのパーティーでも、参加者
の数はぴったり食卓の椅子の数と等しく、国家主席や国の要人が公式行事のパー
ティーでするように、地位や身分の高低に従った席順で着席するのです。
彼のパーティーの席上で何度か会ったことがある友人は、公式なパーティーに
はいくつかの特長があるのだと言いました。
その第一は、そのようなパーティーは行事の重要性と招待客の地位を示すもの
だということです。第二は、招待された人々のうち、ごく僅かしかそれに応じる
ことができる人たちはいないということです。本人か妻、あるいはその両方が、
仕事の時間的都合により、早く帰宅して着替えをして公式パーティーに行く準備
をすることができない者や、妻が充分なイブニングドレスの数を持たないか、
―短期間の間に何度も同じドレスを着て知り合いの前に出るのは憚られるの
で―、または、普通のスーツの値段の2倍以上もし、しかも1年のうち僅かしか
着る機会のないようなパーティー用スーツを持たない者などは、招待されたこと
に感謝の気持ちを持ちつつも、参加を辞退せざるを得ないからです。そのため、
出席できる者たちはほんの僅かでありながらも、招待主は多くの知り合いに対し
て親切を示すことができるのです。
またそのような公式パーティーの最も重要な特長は費用についてです。公式
パーティーの料理の数は限られています。それはサラダ(レタス、キュウリ、ト
マト、ハーブ類など)で始まり、最初のメインディシュは60グラムにも満たな
い魚の切り身と、50グラムにも満たないゆでた野菜。それから同じような分量
の肉やチキンに、ボイルかあるいはオーブンでグリルしたじゃがいも。そして僅
かなアイスクリームとコーヒーです。パーティーに必要な材料は招待客の人数に
応じて準備され、パーティーの後で招待主や家族を悩ませる残り物の山などでな
いのです。またその費用も大変リーズナブルです。
私は彼の家に車を停めた時、少し不安を感じました。その住まいの横には、東
側にエジプト大使公邸、西側にはイスラエル大使公邸があり、近くにはエジプト
大使館とイスラエル大使館のオフィスがあったからです。当時は、アブー・ニ
ダール組織(*アメリカによって国際テロ組織に数えられているアラブ人組織・
ANO)が殺人や爆破を活発に行っていましたし、またモサド(*イスラエル諜報
・特殊工作機関)もアラブ人―特にエジプト人の動向監視に暗躍していて、一度
などは、エジプト大使館のセキュリティーを突破し、重要機密文書の写しをとる
ことに成功した、と言われたほどでした。
この記事の主人公に話を戻しましょう。彼はかつてアラブ諸国の大使たちがス
ウェーデンに自国の大使館を開くべくストックホルムに着任した際、彼らに多く
の援助を提供しました。アラブ諸国の外交施設の多くが、彼から借りているもの
か、あるいは彼から買い取ったものか、どちらかなのです。しかしそれは驚くこ
とではありません。彼は第二次世界大戦の期間を利用し、多くの富裕な人々から
その所有財産を買取りました。当時ヒットラーがヨーロッパ各地を攻撃してお
り、彼らはヨーロッパより安全な国へ移住したがっていたのです。それにより、
彼は首都の最も立派な宮殿の数々を手に入れ、顧客のニーズに合わせてそれらの
売却、あるいは賃貸を申し出たのでした。
彼は一度、アラブ人大使を含めた3人の大使たちの送別のためにストックホル
ム郊外の農園で催されたパーティーに私を招待してくれました。彼はその時、夏
の平服で来るよう言いました。季節は夏で、一年で最も昼間の長い時期でした。
農園についてみると看板が立っていました。そこには、この集まりは儀礼的な
ものではないと書いてあり、また、入り口の台の上に皿と番号がついた紙コップ
があるので、客人はそれを取って自分の紙コップの番号を覚えておき、パー
ティーの間それを使って欲しい、と書かれていました。私は紙コップを取り、覚
えていられるように36番という数字を選びました。そしてジュースや水のコー
ナーへ向かい、コップを満たしてから他の参加者たちと合流しました。招待主は
私の参加に感謝の意を表し、おいしい料理を確約しました。
彼は私たちのためにメキシコ風に炭火で焼いた羊を一頭用意していました。
(手足を広げた羊を縦横両方から鉄の棒に刺し、一方の棒の先は炭の上で地面に
突き立て、よく焼けるように時々羊をひっくり返します。)
しかし招待客が大勢いるにもかかわらず、目の前にあるのは焼いた1頭の肥え
た羊だけでした。そしてその横には炭火の上に大鍋がかかっており、のちにそれ
はサフランライスだとわかりました。
やがて食事に呼ばれたので、私たちはみなプラスチックの皿を持ち、列になっ
て並びました。すると各人に、焼いた羊肉の小さな一切れと、大きなスプーン一
杯分のサフランライスとサラダが差し出されました。
そして肉もライスもそれ以上はなかったので、再び列に戻って並ぶことはあり
ませんでした。それでもその日は快晴で、招待主と客たちの顔には互いに会えた
喜びの表情が見えました。
言い忘れましたが、招待主は我々と同じ祖先を持ち、もともと我々とは親戚関
係とも言える人々の一人でした。(*訳注:アラブ系ユダヤ人のこと。彼はその
中でもイラク系ユダヤ人だったようである。)
彼はかつて同じ宗教の人々と共にイラクを離れ、パレスチナではなく、ス
ウェーデンを目指したのでした。彼の移住国の選択は、成功したのではないで
しょうか?!(*訳注:当時多くのユダヤ人たちがパレスチナをめざし、その中
にはアラブ諸国在住のユダヤ人もいた。)
マドリードにて―ヒジュラ暦1426年(西暦2005年)ラマダーン月14日
筆者:モハンマド バシール クルディー
前駐日サウジアラビア大使
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