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アラブイスラーム学院ウェブサイトの読者の皆様、私たちとの新たなる再会によ
うこそおいで下さいました。今日は、このページを通して私たちと航海の旅に出
かけましょう。けれど一体私たちの船はどこへ向けて航海しようというのでしょ
うか?
私たちの船は、かつてアル=ホマイリーが彼の著書の中でこのように記した地へ
と出かけるのです。
「その澄んだ空気と心地好い風はシャムのようであり、その気候の温暖さはヤマ
ン(イエメン)のよう。その芳香と清浄さはインドのようであり、そのそびえ立
つ山々はアフワーズのよう。その貴重な鉱物は中国のそれのようであり、その海
の恵みはアデンのよう。そしてそこには英知の民であり哲学の祖であるギリシャ
人たちの偉大な足跡がある。……」
私たちが旅するその地がどこなのか、あなたにはおわかりになりましたか?
それは楽園の地、失われた財宝……アンダルシアです。
ムスリムたちはアンダルシアに多くのモスクを建立し、イスラームの光を広め、
その地に公正と真理を打ち立てました。かつてイスラームが開放したどの地でも
そうしてきたように。そしてまたアンダルシアの持つさまざまな要素が、ムスリ
ムがそれまでには成しえなかったようなイスラーム文明の構築を後押ししたので
した。アンダルシアは文明を築くために不可欠な肥沃な土地を有しており、それ
は高貴な暮らしと繁栄をもたらしました。アンダルシアのすべてものが貴く価値
の高いものでした。
アンダルシアとは、ヒジュラ歴92年/西暦711年に、ハリーファ(カリフ)
・アル=ワリード・ビン・アブディルマリクの時代に、ムーサー・ビン・ヌサイ
ル、ターリク・ビン・ズィヤードの手によってイスラーム開放された、イベリア
半島におけるイスラーム時代のイスパニアのことです。そのイスラーム開放以
来、ムスリムはイスパニアを統治しました。その中に含まれる多くの王朝の中に
は、ウマイヤ王朝、その次のターイファ王朝群、それからムラービト王朝、ム
ワッヒド王朝などがあります。
そしてアンダルシアにおけるムスリムの後退の始まりは、ヒジュラ歴609年/
西暦1212年のアル=ウカーブの戦いからでした。その後ヒジュラ歴633年
/西暦1236年にはコルトバが陥落し、ムスリムのスルタンたちはナスル家や
アル=アフマル家の都だったグラナダに追い込まれ、ついにアラゴン王国とカス
ティーリャ王国の国王たち(イザベルとフェルナンド)に征服されてしまいま
す。
さあ皆さん、物語の最初から始めましょう。
まずはアンダルシアでかつて栄えたさまざまな王朝についてお話しします。
歴史学者たちによれば、アンダルシアに最初に住んだ人々は、アンダルシュと呼
ばれる民でした。それは預言者ヌーフ(ノア)の民が大洪水で滅んだ後のことで
す。アラブ人たちはその名前をアル=アンダルス(アンダルシア)と改めまし
た。
アンダルシュは邪悪な民で、地上を腐敗させました。そのため国情は旱魃や貧困
へと様変わりし、泉はみな渇ききり、雨は降らず、土地はみな旱魃の被害に襲わ
れました。そしてついに彼らの多くは死に絶え、生き残った僅かな者たちはその
地を逃げ去りました。こうしてアンダルシアは廃墟となり、そのような状態が1
世紀近くも続きました。
そしてその後のことです。
あるアフリカの民族が貧困に直面していました。そこで彼らの王は臣民の集団を
アンダルシアへ送り込みました。アフリカ住民の数を減らし、貧困を軽減するた
めです。
そのアフリカ人の集団がアンダルシアに着くと、そこには多くの未知の川や泉が
湧きでており、緑が豊かに茂り、土地が肥えているので、それを見て彼らは大変
驚きました。そしてとても喜んでアンダルシアに留まりました。アンダルシアで
の彼らの国の王権は長く続きましたが、やがて彼らもいなくなりました。
彼らに変わってやって来たのはイタリアから来たローマ人でした。彼らはアンダ
ルシアに住み着き、彼らの最初の王「イスパーン・ビン・タイトゥス」の名に因
んで、「イスパニア」と名付けました。
それ以後も数多くの王朝や民族が入れ替わりアンダルシアへとやって来て、それ
はゴート族がやって来るまで続きました。彼らはアラブではコート族と呼ばれ、
ムスリムによるイスラーム開放前に居住した最後の民でした。しかしそれでも
ゴート族は完全にいなくなったわけではなく、イスラーム開放後もかの地に残
り、ムスリムと共生していました。
親愛なる読者の皆さん、次回はイスラーム開放前のアンダルシアの状態について
お話しましょう、インシャーアッラー。それではまたお会いする日まで。
筆者:リハーブ ザフラーン
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