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読者の皆さん、イスラームによるアンダルシア開放の物語を続けましょう。
ターリク・ビン・ズィヤートの指揮でムスリム軍がイスパニアで勝利を収める
と、イスラームはイスパニアの地へと入りました。そして3年以上に渡った弛ま
ぬ尽力の末、イベリア半島がムスリムの支配下に置かれると、ムーサー・ビン・
ヌサイルはシャムへと凱旋帰国しました。
ムーサー・ビン・ヌサイル到着の数日後に、ハリーファ(カリフ)・アル=ワ
リード・ビン・アブディルマリクは亡くなりました。そして彼の兄弟であるスラ
イマーンがハリーファとなり、スライマーンの時世がムーサー・ビン・ヌサイル
の最期となりました。
スライマーンの後はオマル・ビン・アブディルアズィーズがハリーファとなりま
した。オマル・ビン・アブディルアズィーズは当初、アンダルシアの件に手が回
りませんでした。彼以前のウマイヤ家の過ちを改正するのに手一杯だったからで
す。しかしウマイヤ朝の諸問題が改正されると、アル=サムフ・ビン・マーリク
という人物をアンダルシアの太守に選びました。
当初ハリーファは、ムスリムが危険に晒されることを恐れて、アンダルシアから
ムスリムたちを呼び戻そうと考えました。しかし太守には、ムスリムのために、
将来、ヨーロッパ社会に宗教的・文明的足跡を残したいという希望がありまし
た。また彼はアンダルシアのムスリムたちの現状を熟知していたので、ハリー
ファにそれを説明し、彼らの安全面での心配をハリーファから遠ざけたのでし
た。
それから多くの出来事が起こりました。そしてハリーファは亡くなり、太守も殉
教しました。
ハリーファ・オマル・ビン・アブディルアズィーズ亡き後、イスラーム国家の統
治は彼以前の状態に戻ってしまいました。オマルのハリーファとしての偉業は、
まるで迅速な改革運動のようでした。
(ウマイヤ王朝とハリーファ・オマル・ビン・アブディルアズィーズの項をお読み下さい。)
その後さらに多くの事件が起こり、北アフリカでは陰謀が激化し、マグリブとア
ンダルシアとの間で多くの反乱や陰謀が繰り返されました。
それ以前も陰謀と対立のせいで、ムスリムはバラート・アッ=シュハダーの戦い
で敗北を帰しており、アラブ・ベルベル間の確執は広がり、その溝は深くなって
いました。
アラブはアフリカの他民族たちに援助を求め、ベルベル敗北に向けて彼らと同盟
を組みました。そしてついには、騒乱と荒廃の中、国を放置してアフリカへ帰る
者たちも出てきました。
それにより、アンダルシアのムスリムを倒して殺害しようと目論む北部イスパニ
ア勢力に、つけ入る隙を与えることになったのです。
そして最後に、ユースフ・ビン・ファフリーがやって来ました。彼はアンダルシ
ア・ウマイヤ朝の成立前では、アラブ人最後の太守となりました。
彼の時世には戦禍が広がり、それはすべての地方を覆い尽くしました。それに
よって人々が危機感を抱いたことから、西暦755年/ヒジュラ歴138年、ア
ンダルシア・アラブ王朝の始祖、アブドゥ=ッラフマーン・アッ=ダーヒルの呼
びかけに彼らは素早く応じたのだろうと思われます。
それでは次回は、アンダルシア・アラブ王朝(アンダルシア・ウマイヤ朝)の始
祖アブドゥ=ッラフマーン・ア=ッダーヒルについてお話します。またお会いす
る日まで。
筆者:リハーブ ザフラーン
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