カアバ聖殿について、コーランの「イムラ―ン章96−97」で、それは人類のために初めて建てられた家で、神の証に満ちており、生きるもの凡てへの祝福である、イブラーヒームが礼拝に立った場所がある、そこに入る者には平安が与えられる、またそこへの巡礼は義務である、と言っています。ちなみに世界の礼拝の中心はメッカですが、面白いことにそのカアバ聖殿の中に入ると、周囲の壁に向かってではありますが、どの方向へ向かって礼拝しても良いそうです。もちろん普通入れるものではないのですが…。なおこれ以外にも聖マスジドについてコーランで言及されていますが、合計で15回も出てきます。
カアバ聖殿が礼拝の中心に置かれるのは、西暦622年のメディーナへの逃避行(ヒジュラ)から1年半くらい経ってからでした。同地へ赴く前に、メッカでどのようなムスリムの礼拝が行われていたかの細かなことは、ほとんど記録もありません。周りから種々の迫害や弾圧を受けていたことは、逃避行にいたる事情として想像に難くありません。アルアルカムと言う人の家に、預言者ムハンマド初めムスリムは身を隠さねばならない時期もあったと言われています。しかし何れは帰還すべきところとして、カアバ聖殿が初めから意識される存在であった事は、その後の歴史上の事態の進展振りが示しています。
なおこのカアバ聖殿をキスワと呼ばれる黒い布で覆う習慣は古来からあったそうで、それがイスラームでも継承されました。四角の側面それぞれを二枚の絹布で覆うので、合計8枚の布を合わせて使うことになります。毎年巡礼月の9日目に架け替えられますが、使用後は裁断され世界各地の関係方面に配られ、イスラームの伝播に寄与しています。その産地は1962年までは伝統的に、エジプトのデルタ地方にあるタンニースという街に決められていましたが、現在ではサウジアラビアで作られています。それに華美に金銀の刺繍をすることは、元々のイスラームの姿ではないとの議論も行われてきています。
この建築の時に天使が齎したとされるのが、あの黒い石です。材質は隕石だとの話もありますが、昔から触れてきたために石は丸みを帯び、真ん中当たりはへこんできています。今日でも巡礼者は、接吻ができないか、そして少なくともなんとか近くに手を伸ばそうとしているシーンを、画像などで見られた人は少なくないと思います。でも今では樹脂で覆われているので、石に直接に触れることはできません。よく人の手が触れたので、時代とともに黒くなったと思われがちです。しかし当初は真っ白だったのが黒くなったのは、人類の様々な過ちのためだと、預言者の伝承は伝えています。
ちなみに黒石については、ヒジュラ元年の十数年前に、カアバを再建する工事があり、その時誰がそれを安置するかで大変にもめました。そこで石材集めなど建設工事にも協力していた預言者ムハンマドに白羽の矢が立ち、彼は無事黒石をその場所に納めると同時に、関係者のもめ事も収拾したと言う逸話が残っています。そのやり方は、布の上に黒石を置いて、その布の端を何人かの代表者が掴むことによって、不公平感を収めたということです。一つの知恵を示唆しているようです。
カアバ聖殿の建造に当たり、預言者イブラーヒームの息子イスマーイールも一緒に手伝いました。彼がもっと小さい頃、喉の渇きを訴えた時、母親のハージャルは水を探して近くを走り回りました。それが聖マスジドの北東へ延びる回廊になっている、サファーとマルワの二地点間を結ぶ道のりです。長さは約650米あります。そして願いかなって、この時に湧いて出たのが、カアバ聖殿に隣接するザムザムの泉です。ザムザムの泉水を飲むことは、巡礼の途中でも行われますが、またそれは巡礼者が土産の品として喜んで持ち帰る聖水でもあります。最近ではペット・ボトルに入れたものを入手できるシステムになっています。
こうしてカアバ聖殿と黒石、イブラーヒームが礼拝したお立ち所(両方の足跡が掘り込まれた石があります)、ザムザムの泉、サファーとマルワのニ地点を結ぶ道のり、そしてアルアルカムの旧家跡など、全体を含む形で聖マスジドができており、またそれらは聖マスジド内の聖なる旧跡になっているわけです。なおメッカの近くには預言者ムハンマドに初めて啓示の降りたヒラーの洞窟があります。多くの巡礼者が押しかける場所の一つではありますが、サウジアラビアなどはこれをも神聖視するのは根拠がなく、正しくないと言う考え方です。というのは、ヒラー後も啓示は引き続き降りてくるわけです。
マスジドは神聖視されるものではない、と以前に言いました。それはその通りですが、メッカ、さらにはメディーナ、ジェルサレムなどは、それぞれその場所が他と異なり神聖視される背景が預言者の言葉などに基づきあるのですが、まずはメッカについてはかなり判明したかと思います。
聖マスジドは長い歴史を通じて、連綿と拡張、改良工事が続けられてきました。1576年、オスマン朝の時代にはアッバース朝の時以来、初めてカアバ聖殿そのものの立替が行われました。これはその後、1629年の洪水で損傷したので、再建され、また黒い石も正しい場所に置きなおされました。ちなみに黒い石やイブラーヒームのお立ち所は、幾度も宗教的な敵対者が盗もうとしてきたそうですが、結局それらは信者によって守られてきたわけです。同年再建の際、カアバ聖殿の礎石には緑色の玄武岩が引き続き使われることになりました。それはイブラーヒームとイスマーイールが最初に建てた時のものとされているからでした。
最大の拡張・改良工事は、20世紀に入ってからサウジアラビア政府が行ってきたものでした。交通手段の進歩による信者数の増大や、水質はじめ生活環境全般のレベルアップが背景にありました。まず、1956年、5カ年計画の拡張工事に入り、1976年の全周囲の拡張についで、一番最近の拡張工事が完成したのは、1995年です。南側への拡張が実現されたのですが、これで優に百万人を収容しての礼拝が可能になりました。また90米に達するミナレットはオスマン朝以来の先端のとがったものが、新たに南側に2本建てられ、全体で9本になり、その威容を誇っています。
なお百万人の礼拝といっても、とんでもない数だという以上には、特に実感が湧かなくても不思議はないでしょう。メディーナでも同時に百万人の巡礼者の礼拝が行われますから、巡礼の時期に二聖地で一日五回、一緒に礼拝するのは合計二百万人になります。全く参考として例を引くと、東京の明治神宮の正月三が日の参拝者数は全国一だそうですが、その合計数が三百万人だそうです。ですから一日当たり平均が、ちょうど百万人になります。ただそれは、一日の間に流れる人の数ですから、同時に礼拝する人の数ではないので、少し違うのかもしれません。
1986年にファハド現国王は自らの称号として「陛下」を止め、「二聖マスジドの守護者」というイスラームに則る肩書きを公式に採用しています。ちなみに著者は、ファハド皇太子時代から実際近くに謁見する機会にも恵まれたので、その生の息吹に接してきた感があります。同国王は、以上の大事業の完成に伴い、名実ともに歴史に残ることになったといえるでしょう。
なお毎年巡礼月の7日目までにはメッカに入り、まずそこでカアバ聖殿の7周巡回、サファー・マルワ間の駆け抜けなどを済ませます。それから近郊のアラファート山での熱烈な早朝からの礼拝やミナーでの悪魔退治の投石などが終われば、また12日目にはメッカに戻り、帰路に付く前の最後の礼拝を行うことになるわけです。メッカ巡礼のため村全体で長老を支援したなどというのは、少々昔語りになったこの頃です。交通機関もラクダのキャラバンから、船、鉄道、そして飛行機と変遷してきました。しかしアッラーと直接対峙する、何物にも変えがたい機会としてのメッカへの巡礼の格別な意義と重要性には、全く変わりありません。
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