イスラーム建築
 

【栄光のメディーナ】
 

1.
預言者マスジド(サウジアラビア:メディナ)
2.
預言者マスジド(サウジアラビア:メディナ)
3.
ラウダ・ムタッハラ
4.
ミフラーブ
5.
預言者ムハンマドの墓
6.
マスジド・クバー(サウジアラビア:メディナ)
メッカ北方420キロの所にあるメディーナに預言者と彼の随行者約80名が逃避(ヒジュラ)したのは、西暦622年でした。この年をもってヒジュラ暦の初めとすることは、言うまでもないでしょう。なおメディーナには常に、ムナウワラ(栄光の)という修飾語がつけられるのが正式ですが、ここでは、メディーナとだけ記します。

その時新天地に到着してまず礼拝をしたところは、クバー地区でした。その場所にマスジドが建てられ、マスジド・クバーと言われるようになりました。これがイスラームのものとして創建されたのでは、最初のマスジドになったわけです。
その長い歴史の中で、このマスジドは様々な修復、改築を繰り返してきたのは想像に難くありません。一番最近は1967年に行われたもので、エジプト人建築家でアルワキールという人がその作業に当たりましたが、この建築家はその後もサウジアラビアで好評を博し、数多くのマスジド建設に従事することになりました。彼は土地の風土を十分取り入れることを強調した、エジプト人建築家ハサン・ファトヒーの弟子で、その薫陶を仰いでいるのです。この度の改築で1万人の礼拝者を収容することが出来るようになったので、巡礼月でも相当活躍することが可能になりました。
コーランでマスジドに言及されているのは、前に述べた箇所のほか、マスジド・クバーについて、「最初の日から敬虔に礎を定めて建立されたマスジドこそは、あなた方がそこに立つに相応しい。その中には、自ら清浄であることを好む人びとがいる。」(悔悟章108)と言う節があります。コーランではイスラームのマスジドというと、前章の聖マスジドと、このマスジド・クバー、そして次章に触れるジェルサレムのマスジド・アルアクサーが言及されているだけです。なおクバー地区では預言者より早くにメッカから抜け出してきていたムスリムたちが待ち受けていたので、そこで彼らと共に時間を過ごすため、当初預言者らは何日かそこに滞在したとのことです。

メディーナで今一つよく知られているのに、マスジド・アルキブラタイン(二つの方向)と言うのが郊外にあります。メディーナに移ってから約一年半後、そこで昼の礼拝をしているとき、突然預言者に啓示が降りて、それまでのジェルサレムではなくメッカに向かって礼拝しろ、と言うことになったのです。コーランの関係個所を引用します。「そこでわれは、あなたの納得するキブラに、あなたを向かわせる。あなたの顔を聖なるマスジドの方向に向けなさい。」(雌牛章144)ジェルサレムに向かうのが、それまでのすべてのセム族宗教の倣いであったのでしょうが、この点でも新規巻き直しということになったのです。研究者によると、現地にいたユダヤ人などときっぱり袂を分かつ必要があったとの解釈もなされています。
以上の二つのマスジドはまさしく原型を示していたと言えたのでしょうが、マスジド・アルキブラタインも1989年に改築され、現在ではすべて現代建築に変わっています。

さて次はいよいよ預言者マスジド(アルマスジド・アルナバウィー・アルシャリーフ)です。その事始は預言者の当初の自宅兼礼拝所でしたが、この背景から、預言者マスジドはイスラーム第二の聖マスジドとされたわけです。その場所が選ばれた理由は、メディーナに入った後、預言者のラクダが初めて足を曲げて座り、休息をとった場所だったとの、話も伝えられています。
さらにこのマスジドには、互いに近い所に預言者、第一代正統カリフ・アブー・バクル、第二代正統カリフ・ウマル、そして預言者の家族の墓が設けられています。真にイスラームの歴史を物語りますが、さらに事実メディーナは、後代のイスラーム発展の基礎である共同体を作り始めたと言う意味でも、歴史的に掛け替えのない土地となったのです。

最初の頃の預言者の家は土のレンガつくりで、天井はナツメヤシの葉で覆うといった、簡素そのものだったようです。それでも付設の礼拝所は、後のマスジドの原型としては十分の構造でした。キブラは当初、ジェルサレムに向けて北側に設けられていたのですが、しばらくしてメッカの方向、つまり南向きに改められました。それはミフラーブ、つまり後代の壁のくぼみではなく、目印の石が置かれていたそうです。礼拝所は、しばらくすると次から次へと信者の数が増えそのたびに手狭になるので、預言者自身の手によって3回も拡張されました。ただしそれはレンガ壁で囲まれている約50平方米の更地というだけのことで、そのほんの一部がナツメヤシの陰で覆われるだけで、礼拝所全体を覆う屋根はなく、青空礼拝所だったのです。また拡張の最後の段階では、婦人用の礼拝場所が仕切られたそうです。
この家の部分から説教に立った箇所までを預言者は「清浄な庭」(ラウダ・ムタッハラ)と呼んで、こよなく愛したそうです。現在の預言者マスジドのミフラーブからミンバルにいたる地点がその「清浄な庭」の場所に当たるそうです。もちろん今では建物はすっかり改められて、この「清浄な庭」も荘厳、荘重な雰囲気に満ちています。

歴史を通じて、様々に拡張、改良工事が続いたのは、メッカの聖マスジドと同じです。預言者の家と当初のマスジドが、メディーナの人々に悔やまれながらも工事のために失われたのは、ウマイヤ朝カリフ・ワリード1世の治下、707−9年の時だとされています。シリア方面から多数の職工が連れてこられて、預言者マスジドは当初の簡素なものから、ビザンチン風の装飾に満ちたものに生まれ変わったとのことです。しかしそれも、1256年の大火ですべて失われてしまいました。
そして最大の拡張工事は、これもメッカと同様ですが、サウジアラビア王国になってからのものです。特にファハド国王になってから力が入れられ、1984年以来、ほぼ敷地面積としては一気に倍以上に拡大されました。そうして預言者マスジドは現在では、敷地は400平方米、建物は東西350米、南北250米という膨大な規模となって、メッカ同様、一時に百万人の礼拝が可能な施設となりました。全体は近代的建築様式ですが、他方その中央にある緑色のドームは、20世紀に入ってからサウジ王家によって設けられましたが、古風で素朴な風情をいまだに伝えているように見受けられます。

メディーナの近くには、オホド山があります。ここでは西暦625年、攻めてきたメッカ軍と戦ったイスラーム軍が敗北を喫し、預言者も深手を負ったとのことです。今でも多くの人が訪れる場所になっています。
以上のような預言者を中心とした思い出の場所が色々あるのが、メディーナです。信仰の重要な一部は、預言者やその教友の人々の人徳、信心ぶりに対する尊崇の気持にある以上、自然な心情でしょう。それだけにいわば信徒の人気の高い場所でもあり、巡礼をメッカで済ませるとメディーナに長居する人たちも少なくありません。

なおこの章を終わる前に、預言者ムハンマドの時代にはメッカやメディーナ以外でも、預言者の命によりマスジド建設が進められていたことにも触れておきたいと思います。それはイエメンの地においてでした。現在も続いているものでは、首都サナア市内のマスジド・アルジャーミゥ・アルカビール(628年設立)や郊外にあるマスジド・アブー・ムーサー・アルアシュアリー(629年設立)などがあります。ただしいずれも建物としては、まったく当初のものは残されていません。
イエメンといえば、シバの女王とその当時のマアリブのダム(長さ3キロ、高さ40米という大規模なもの)でも知られていますが、建築技術の高さで古くから有名でした。その伝統はマスジド建設にも役立ち、さらには20世紀に入り、二聖地の大建設事業の多くを請け負ったサウジアラビアのビン・ラーデン社も、家系としては元々イエメン系でした。イエメンといえば、日本ではほとんど注目される機会もありませんが、それだけにここで特記しておきたいと考えました。


執筆:アミーン水谷
アラブ イスラーム学院研究員


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