西暦632年の預言者没後間もない頃、新開発された諸都市、たとえばイラクのバスラやクーファ、エジプトのフスタートなどでは、まず都市の中心として建造されたのはマスジドでした。
クーファではほぼ正方形の形のマスジドが作られたようですが、南側の壁がキブラの方向だということで、ミフラーブは設けられなかったそうです。その測量のために、矢が放たれて、マスジドの四方の距離が定められたという逸話は、よく知られています。しかし当時のものはほとんどが、その後の激動の中で破壊されました。バスラでは、その後再建されたマスジドの半壊のミイザナが、今も砂漠の風に吹かれています。
フスタート(現在はカイロ南部)に至っては街自体が瓦礫の山のようになった時期もあったわけですが、当初のマスジドはその後も増改築され、今日まで続いています。それがエジプト初のムスリムの統治者、司令官であった人の名前を採った、642年建立のアムルー・ブン・アルアースのマスジドです。彼はエジプトをムスリムとして征服下のですから、またの名を「征服マスジド」とも言われました。メディーナの預言者マスジドに範を取って作られたようで、元来は20米×30米くらいの面積でしたので、現状の20分の一ほどの規模だったようです。ミンバルを設けたのですが、第二代正統カリフ・ウマルに認められなかったという逸話があります。そして現在では当時のままに残っているものはなく、1798年の工事でほぼ現状見るような姿になったそうです。
預言者の後継者たちである、正統カリフの時代(632−661年)で一番注目されるマスジドとしては、マスジド・アルアクサーと岩のドーム・マスジドがあります。そしてこれらは二つとも、イスラエル占領下のジェルサレム旧市街に隣り合わせに作られて、その地区一体が「誉れの聖地(ハラム・シャリーフ)」と呼ばれるようになりました。
マスジド・アルアクサーのアクサーとは一番遠い、と言う意味ですが、メッカから見て一番遠いということです。その事始めは第二代カリフ・ウマルの同地訪問の時に遡りますが、現在の地点に建造されたのは、715年、ウマイヤ朝に入ってからです。しかし当時の建造物として残されているのは、柱の上の飾りなどほんの少しです。その大きな原因は、相次ぐ大地震でした。記録では748年、774年、そして1015年に被災したのですが、その度、早急に復旧されてきました。ですから外見全体はその後の様式に改められたのですが、内部の大きな礼拝用広間を覆う木製の天井は有名で、このようなところに昔日の簡素さが残されていると言えましょう。
また有名と言えば、現代の時事的な意味でも知られるようになりました。1969年の同マスジド放火事件や、2000年当時はイスラエル野党党首だったシャロン(2005年春現在は首相)の誉れの聖地訪問による領有権主張などがありました。そのたびごとにマスジド・アルアクサーは、次に述べる岩のドームも含めて、パレスチナ抵抗運動の象徴としての役割を果たしてきています。
次は岩のドーム・マスジドです。このマスジドは燦然と輝くドームで有名ですが、上に書いたアクサー・マスジドの建物のすぐ隣にあり、事実その構内にあるので、その一部として岩のドーム・マスジドが見なされることもあります。他方アラブではこれらに個別の名称を与えています。ただしこの岩のドーム・マスジドの建物全体は、岩を覆うために作られた構造になっていて、ミフラーブがあってその前に広い礼拝堂があるという、通常のマスジド形式ではありません。
預言者ムハンマドは、霊獣に乗って「夜の旅」でメッカから飛んできて、ここにある岩から昇天して、礼拝に関する啓示を受けたと考えられています。ですから、そこはイスラーム第三の聖地とされるのです。この岩の下の方は大きな穴が開いていますが、一部の研究によると、古代には岩の上で動物を神への犠牲に葬って、地下の穴でその血を集めたり清めの水を流したりしたそうです。
この岩の上にその保全のために、まず木の板で覆いをするように命じたのは、第二代正統カリフ・ウマルでした。ただし現在にいたるもかなりの部分その原形をとどめているドーム全体を建設したのは、ウマイヤ朝に入ってからで、691年に完成しました。
後の十字軍の占領下では、この岩を削ってはキリスト教徒巡礼者のお土産として売るようなことがあったそうです。ですから一時はそれを阻止するために、大理石で岩が覆われたのですが、それを取り払ったのは十字軍を追放したことで名をなした、サラーハ・アッディーン(1193年没)でした。現在ジェルサレム全体は岩のドームも含んでイスラエルの占領下にありますが、イスラエル政府はこの岩をコンクリートの塊で覆い隠してしまいました。
塗り張られた金で光り輝く建物は、ジェルサレムの丘の上に聳え立ち、イスラームの他宗教への勝利、新ウマイヤ朝の力を誇示する効果もあったと思われます。
このよく知られる岩のドームは、直径約20米、地上の高さ約35米ですが、面白いことに、このドームの幅は岩の大きさとほぼ同じで、また当然その岩の上に立つことはできませんから、ドームを建物内部で下から仰ぎ見ることはほとんどできない形になっています。それだけドームは外から見ることを意識して作られているともいえます。しかし研究によると、そのドームの内側も周囲の壁と同様に様々なモザイク模様で埋め尽くされているとのことです。
このモザイク模様についてですが、これは当時ジェルサレムにいたビザンチン時代の職人の仕事であることは間違いないにしても、すでに相当イスラームの文化パターンが創始されていることは注目してよいでしょう。まず多量のデザインやパターンには、人物や動物の文様はまったく採用されていないと言うことです。偶像に導くものとして排除されたのでした。それ以上にイスラーム的なものとして、コーランや預言者伝承の言葉を綴った文字が方々に散りばめられています。他方樹木や草花の文様は、かなり多数取り入れられています。これは天国の様子を描こうとしたのだと言う説や、ビザンチンさらにはペルシアの影響だと言う説明もあります。そしてこれさえも絵画の一部だとして排除されなかった理由は、まだ研究者の間で議論続行中で、定説はありません。
もう一つ指摘されるのは、岩のドーム建築のモザイク文様は、それまでのビザンチンなどの常識を覆した面があるということです。それはどういうことかというと、従来文様は建物の飾りであり、付属品だったのですが、岩のドームのそれは、主従関係をしばしば逆転させる発想で、モザイク文様が壁の凹凸や方角などを無視して、それ以上に図柄の存在を前面に出してきているということです。この装飾中心主義ともいえる発想の端緒がここに見出せることは、その後のイスラーム芸術感覚の重要な一側面に発展していったことから、大きな歴史的意義が認められるわけです。
ドームを支えているのは、八角形の建物です。どうして八角形とされたのか、そのデザインの背景については、あまり説明されていません。別に岩の形が八角形だというのではないのですが…。岩自体の地上に出ている形状は、一辺が直線、他方は円弧を描いているという変わった形です。また預言者が上った天国は7層に分かれているほかコーランで大切にされる数は7ですから、この意味で八角形は数の関係の由来もなさそうです。しかしその後も、各地のイスラーム建築では様々に八角形の建物が造られ、例えばミイザナなどもその例に漏れません。
もう一つの不思議は、アクサー・マスジドは大地震で基礎から被災してきたことを上で述べました。しかし岩のドーム・マスジドにはそのような記録が通常上げられていないということです。もちろんドームの改修がファーティマ朝の1022年、そして後のオスマン・トルコ朝の1543年に行われたことは、知られていますが、これらは主としてドームのモザイク修繕のためだけでした。地震に被災しての修復のためではなかったようです。
色々と不思議を抱えながらも、あの光り輝くドームの姿を見て、日本は京都の金閣寺を思い起こすのは、著者一人でしょうか。そういえばあの金閣も階を分けて、唐式と和式の両建築様式を一つの建築物に合体して設計され、一つの歴史的道標となったものだったことが自然と思い出されてきます。
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