イスラーム建築
 

【ダマスカスの時代】
 

1.
アルジャーミゥ・アルウマウィー(シリア・ダマスカス)
2.
アルジャーミゥ・アルウマウィー(シリア・ダマスカス)
3.
マスジド・アルジャーミゥ(チュニジア:アルカイラワーン)
クライシュ族のウマイヤ家がメッカからシリアに移って、イスラームの次の時代を築いたウマイヤ朝(西暦661−750年)が成立しました。その首都ダマスカスに居を定めたカリフの指揮の下、この時代に西はマグレブから東はイランまでという、イスラームの大版図がほぼ完成したのです。

イスラーム勢力がダマスカスを支配下におさめたのは635年でしたが、当時から街中にはキリスト教の教会が立てられていました。そしてムアイヤ朝カリフ・アルワリード1世(705−715年)はキリスト教徒との交渉を経て、その教会を改め10年ほどかけて壮大な、アルジャーミゥ・アルウマウィーを建設しました。当時の新生イスラーム国家のはつらつたる気運を反映していたのでしょう、すでに取り上げたメディーナの預言者マスジドやジェルサレムのマスジド・アルアクサーもほぼ同時並行的に建設工事が進められました。この意味でこのカリフ・アルワリード1世がマスジド建築に残した功績は、実に多大なものがあると特筆してよいと思われます。

さてこのように居並ぶ、著名なマスジドの中でも、ダマスカスのアルジャーミゥ・アルウマウィーは、ほぼ原型をとどめていると言う点で、群を抜いています。11世紀と19世紀末に大火にあってはいますが、石造りだけによく保存されてきているのです。建物全体の印象は、伸びやかで草創期の簡素な感性が十分伝わってくるものです。これは当時としては、金箔や種々のモザイク装飾など華やかさを狙ったものではあったのでしょうが、それは建造物の上に取り付けられたものです。その建物全体の印象は、まだまだ閑静、簡潔の美を保っています。ちょうどこれは日本でいうと、簡素な風情をとどめつつ、よく原形をとどめた最古の建造物の中に豪華な壁画のあった、奈良の法隆寺夢殿に近い感覚だと思われます。日光東照宮の、これでもかというしつこいばかりの絢爛さに見られる趣味や感性とは、原点が異なっているとも言えましょう。

敷地は約100米×160米、その中の南側に約40米×140米の礼拝堂があり、後は中庭を回廊が取り囲むと言う、シンプルな構造になっています。その規模の大きさからも、このマスジドのアラビア語での呼び方では必ず最後に、アルカビール(壮大な)という修飾語がつけられます。この構造自体は、メディーナにおける預言者の自宅兼マスジドのスタイルに倣ったと想像されます。しかし同時に様々な追加の施設が生み出されて、ここに現在われわれがマスジドと言うときに普通思い浮かべるような典型的な構造でありデザインが登場したわけです。

その一つが、アーザーンを行うミイザナです。現存のものはいずれも当初のではありませんが、このマスジドには元々一つしかなかったのに、その後二つ追加され、現在では三本立っています。ミイザナは本書でこの後でも見るとおり、今日までに、四角形や円形などなど様々な形状の変化を見せながら発達してきました。また今日、拡声器などが発達して、ミイザナ不用論も出されるに至っています。しかしこれが今ではマスジドの一番の目印であるとともに、ドームと並んでムスリムにとって誇りの象徴の役割を果たしていると見られます。

そして次はドーム(アラビア語でコッバ)です。神聖な場所を崇めるためにドームを作ること自体は、イスラーム以前から見られた習慣ですが、それがマスジドにも取り入れられたと言うことです。そして今ではマスジドの不可欠な一部となったのです。アルジャーミゥ・アルウマウィーでは、コッバはミフラーブの場所を崇め奉るために、すぐその上に設けられています。

また付属施設として、図書室や応接室なども設けられました。そしてイマームのお墓も隣接して作られました。このマスジド近くには、本書「その4」で触れた人物で、後に十字軍を打ち破って名をはせた、サラーハ・アッディーンも埋葬されています。ミフラーブ(礼拝の方向を示す壁のくぼみ)やミンバル(説教台)が、預言者の時代からその原型が存在したことについては、本書「その1」や「その3」ですでに言及しました。このアルジャーミゥ・アルウマウィーには現在、何とミフラーブは4個も設けられています。当然すべて南向けの壁に設けられているのですが、これら4個は最初からあったわけではありません。後代に増設され、4個それぞれに、4イスラーム法学派の名前がつけられています。

そして記録によると、このミフラーブ前の中央に、さらに小さな仕切りの間(アラビア語でマクスーラ)が設けられようになりました。これは礼拝に来たカリフの身の安全を守るためだと言われています。長い間、カリフ自身が礼拝の指導者、イマームの役割もかねていましたので、このマクス−ラで礼拝するカリフを前にして、信者は揃って礼拝をあげたわけです。

ちなみに著者は以前、シリアの今は亡きハーフィズ・アルアサド大統領と一緒にこのアルジャーミゥ・アルウマウィーで礼拝したことがあります。もちろん偶然だったのですが、その日は確かに普段より警備兵がたくさんいるので緊張しました。でもその時にはマクスーラといわれるその個室は、もう見当たらなかったように記憶しています。いずれにしてもそのようなものは使わないで、別のイマームを前にして、いわば一般席で大統領は皆と一緒に礼拝しました。もう30年ほど前、預言者の誕生日の礼拝のときでしたが、今昔物語の中の話か何かのように思い出されます。

最後には内部の壁を埋めているモザイク(アラビア語ではフサイフサー)について。この当たりはビザンチン職人の仕事と見られるようですが、その文様には人物や動物がまったく描かれていないことは、岩のド−ム・マスジドと同じです。ただしこのダマスカスのマスジドでは、建築物や流れる川の文様が取り入れられています。それが何を指しているのか、また当時のカリフの意図などについては、定説はありません。さも天国はダマスカスのようであろう、と預言者が言ったという伝承がありますが、ダマスカスを流れるバラダ川を描きつつ首都ダマスカスを天国に見立てたのではないか、など見る人の想像を掻き立てます。

なおシリア北部の町、アレッポにはアルジャーミゥ・アルカビールがあります。これはダマスカスのものよりは少し小規模ですがそれを模倣して、アルワリード1世の弟が715年に建造したと言われています。やはりウマイヤ朝のマスジドとして重要ですが、建物自体はかなり改築を経てきています。高さ45米のミイザナは、11世紀のセルジューク・トルコ時代のものだとされていますし、象牙細工のミンバルはさらに後代のマムルーク朝時代のものです。

次にこの時代のマスジドとして、チュニジアのカイラワーンにあるアルマスジド・アルジャーミゥに話を移します。しかしカイラワーンといっても、ほとんどなじみがないのは当然です。チュニジアの現在の首都はチュニスで、そこから南へ下った内陸部にあるからです。ウマイヤ朝の下、北アフリカに派遣された司令官であったウクバ・ブン・ナフィーウが、この地方の首都と定めたカイラワーンに、670年頃建造させたことに始まります。しかし当時の建物は、9世紀初めに改築の際完全に失われたのですが、その後同世紀中を通じて再建工事が続けられ、現在の建造物はその頃のものです。時代はアッバース朝の宗主権を認めつつも半独立であった、アグラブ朝(808−909年)に当たります。

このような経過ですから、このカイラワーンでウマイヤ朝当時のものがそのまま残っているのは、ミフラーブの後ろに隠れたようになっている壁しかないようです。その光沢を放つタイルはおそらくシリア当たりから持ってこられたのでしょうが、現存するタイルとしては最古であると考えられています。また木製のミンバルも現存最古であると考えられています。しかし一番肝心な点ですが、全体の造りはダマスカスのアルジャーミゥ・アルウマウィーに倣っていると見られることで、これは特記して良いでしょう。たとえば礼拝堂の支柱の配置具合はそっくりで、またそもそも礼拝堂の横の長さが約135米で、ほぼ同じになっています。それと全体の風情が、まだまだ簡素さを中軸としているところが、見落とせません。

このカイラワーンのマスジドは、その後の北アフリカ全体におけるマスジド建設に強い影響力を発揮し、その先鞭をつけたと言う意味でも重要視されています。
この影響の一つは、約32米の高さのミイザナはイスラーム建築全体の中で現存する最古のものだと言われますが、外形は四角で、その先端はドーム型になっているという点です。また礼拝堂の上のドームは、入り口すぐ上と、一番奥のミフラーブのちょうど上の2ケ所に設けられています。この中心線の通路(マジャーズとアラビア語では呼ばれます)はキブラ方向の壁面の前の横並びの一列と直角に交わり、これで堂内の少し広い通路として、アルファベットのTの字が形作られます。これも新しいスタイルで、その後北アフリカで普及するものです。またダマスカスのアルジャーミゥ・アルウマウィーに横幅は似ているのですが、縦はその約2倍の80米になっています。そしてこの礼拝堂の面積は敷地面積全体の半分近くになっています。このように奥深い礼拝堂をほぼその倍の敷地面積に作ると言う基本デザインも、北アフリカで一般化されてゆく要素になったのです。

また当然ながら北アフリカでの礼拝の方角、キブラはすべて東から東南に向かっているわけです。そうするとそれは旭の昇る方向ですから、日中はほとんど西側から強い日差しが礼拝堂の中に差し込んでくることになります。このようなことも、奥深い礼拝堂にするというデザインや設計に影響したのでしょうか。上に述べたような建物の変化に種々指摘があるわりには、それらがなぜ生じたのかの疑問に答えてくれるものは洋の東西を問わずほとんど見当たりません。ですから自然とこのような空想を働かせることも、許されるのではないかと思った次第です。


執筆:アミーン水谷
アラブ イスラーム学院研究員


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