イスラーム建築
 

【バグダードの時代】
 

1.
アルジャーミゥ・アルカビール(イラク・サーマルラー)
2.
アルジャーミゥ・アルカビール(イラク・サーマルラー)
ここではバグダードがイスラーム世界の中心となった、アッバース朝(西暦750−1258年)時代のマスジドを扱います。この時代は、その前のウマイヤ朝がアラブ中心主義だったのが一掃され、それだけにビザンチン、イランなどの文化的な要素もたくさん流入してきた時代です。それは文学や美術工芸品を見ると、一目瞭然です。しかし建築物に付いて言えば、ほとんどがモンゴル軍に破壊されてしまったので、宮殿などめぼしいものは全滅してしまいました。それほどにモンゴルの襲来はすさまじいものだったわけです。大量の書物や貴重な書道の数々も、中国の梵書を上回るような火の粉とともに消えてしまいました。

こんな中、歴史的な古文書に記されているだけというマスジドもありますが、実際に残滓をとどめているものとしては、二つを挙げられるだけです。その両方とも、アルムタワッキルと言う9世紀半ばのカリフの時代に建設されたもので、バグダード市内ではなく、サーマルラーと呼ばれる土地に建造されました。この地名の語源は、その街の美しさから、「見る人は喜ぶ、スルラ・マン・ラアー」、が訛ったものだと言われます。同カリフの治世には短期間首都でもあり、それほどに立派な姿だったのでしょうか。今は砂漠の日照りと熱風が吹き抜けていくだけです。

まず広く知られているものは、アルジャーミゥ・アルカビール(サーマルラー)です。サーマルラーはバグダードの北、約120キロの地点にあります。バグダードからそれだけ離れていたので、完全な破壊を免れたのかもしれません。そうは言っても、現在残っているのは、周囲の壁(南北444米、東西376米)とその内部の壁跡、そしてミイザナだけです。マスジド自体の面積は、240米×160米と、最大級でした。この外周壁を支えているのは、合計40本に上る半円形の支柱ですが、この壁は高さ10米もあり、それが齎す影が程よくマスジド周辺の温度を下げてくれるのではないかとも見えます。

しかしこのマスジドを有名にしているのは、ミイザナの方です。キブラは当然南方向にあるのですが、このミイザナは長方形の周壁の北辺中央に位置しています。高さは52米で、上るための階段が塔の外をぐるぐる回る螺旋階段(アラビア語でマルウィーヤと呼ばれる)になっているので、よく知られているのです。このようなデザインは、古代のバビロンの時代のものではないかと言う憶測までありますが、はっきりしていません。塔の先端には、小さな部屋がしつらえられていて、アーザーンのときに使ったようです。またカリフ・アルムタワッキルは、ロバに乗って好んでこのミイザナを上ったと言う逸話も残されています。

このアルジャーミゥ・アルカビールは、ミイザナも含めて、今ではすっかり外壁の飾りは剥げ落ちてしまって、土色の煉瓦ブロックがそのまま剥き出しになっています。でも往時にはそれこそイランやビザンチン張りのタイル装飾や漆喰装飾が施されていたと想像されています。

この様を見て少し突拍子もない様ですが、すぐに浮かんでくるのは、エジプトのギザのピラミッドです。ピラミッドも往時は、凡て石材が研磨されてその外壁を覆っていたそうで、従ってあの太陽の下で、いずれかの側面がいつもキラキラ光を反射して輝いていたそうです。それらの石材は、剥げ落ちるか大半はどこか他の建築に再利用されてしまったのですが、そのことで砂漠の環境によりうまく適合したのではないかとも見られます。またサーマルラーのマスジドでも、この外壁の塗りや飾りが凡て落ちてしまったことで、著者には砂漠に適した色合いと素朴さが強く出てきているように感じられます。その様子は当然ながら、建設者カリフ・アルムタワッキルも想像もしていなかったことでしょう。ただしその構造及び外観の簡潔さと気宇壮大な気運を偲ばせる雄渾な規模と造作は、創建者の意図そのものとして一点の疑問の余地なく、今日でも往時を十分偲ばせるものがあります。

ギザのピラミッドもサーマルラーのアルジャーミゥ・アルカビールも、外側を一皮むいた形相の方が、その単純な形体とともに、砂漠の中で孤高を保って屹立し続けるのに相応しく思えてきます。時間も空間も異なるのに、これらの二大建築は人の有為変転の世ではなく、何か悠久さを指し示していると思われるのは、砂漠という環境が教えてくれる教訓の一つではないでしょうか。

アッバース朝期のもう一つのマスジドもやはりサーマルラーにあります。マスジド・アビー・ドラファと呼ばれるマスジドで、これは上のアルジャーミゥ・アルカビールをほぼ踏襲した設計になっています。少しアビー・ドラファの方が小さい規模です。螺旋階段つきのミイザナも高さは19米になっています。しかし現在残っているのは、このミイザナと周壁の支柱のみしかありません。このマスジドの変わった名前(ドラファの親父)の由来は、おそらく当時実際にいた人物で、このマスジド建設に関与したのであろうとの推測はありますが、はっきりはしていません。

いわばイスラーム帝国最盛期の記念碑にもなるようなマスジドが残っていれば、どんなにその栄光を偲ぶのに役立ったかと思うと、惜しまれてなりません。しかし、それは言っても仕方ないことです。砂漠の中に、ぽつねんと昔日の残滓が影を落としている様を見て、「春、高楼の花の宴」と荒城の月の歌を誰しも思い浮かべるのではないでしょうか。

他方これほど乱暴を働いていったモンゴルは、イランを除いてはこの地域に文化的にはさして何も残してくれませんでした。それも惜しまれます。ただ一つ特筆しておきたいことは、いまだにイラク南部などには、モンゴル族の末裔が土着化して相当多数住み着いていると言うことです。ナジャフ、カルバラ当たりから南方面では、われわれ日本人は土地の人にまず最初に、あなたはモンゴル人でしょう、と親しげに聞かれるのが普通でした。少なくもこのたびの、イラク戦争まではそうでした。


執筆:アミーン水谷
アラブ イスラーム学院研究員


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