以上でマムルーク朝時代は終わりを迎えました。そして始まったのは、オスマン・トルコの統治です。これはエジプトにとっては停滞の時代でした。経済的にも、ポルトガル人航海士バスコ・ダ・ガマによりアフリカ南端ケープ岬周りの航路が開拓されてからは、東西貿易の要路という価値がエジプトから急速に失われることになりました。カイロでオスマン・トルコ様式のマスジドとして知られるのは、マスジド・スレイマーン・バーシャ(1528年)とマスジド・シナーン・バーシャ(1571年)の二つです。またマムルーク朝時代のもの(1347年のマスジド・アクスンクル)を青と緑のタイルで改造して、青のマスジド、と呼ばれ親しまれるようになったものもあります。
オスマン朝から派遣された司令官がその宗主権を認めながらも、半独立の体制をエジプトに樹立したのが、ムハンマド・アリー朝(1805−1953年)です。全般には、日本の鹿鳴館時代のようなもので、近代化と伝統の狭間で揺れ動きました。ですから、現在はカイロの一つのメルクマールにもなっている、マスジド・ムハンマド・アリーは「バロック風」であるとされ、内部は凡てがアラベスクで飾られ、設計はギリシア人です。ミイザナの高さは82米で巨大なドームとともに、それが城砦の上に立っているので、いやが上にもカイロ訪問者の目に飛び込んでくるわけです。広間の大時計は、1846年、フランスのルイ・フィリプ王からの贈り物ですが、その時にエジプトから贈られたのは、パリのコンコルド広場に聳え立つオベリスクの塔です。
以上で、エジプト・シリア編を終了します。現在のカイロ市内には、約1万5千のマスジドがあると言われています。本書はそれを駆け足で見て回ったようなものですが、それでもかなりの大筋は掴めたかと思います。古いものにはやはり心の拠り所として、それなりの重さが現地の人にも感じられるのは、想像に難くありません。
しかし同時に心しておきたいのは、現存するマスジドは美術や建築の歴史研究の対象となることがあっても、現地では博物館の陳列品でもなければましてや骨董趣味で扱われるものではありません。それは生きた宗教信仰の切磋琢磨、専念の場であり、それは人々の間で日々生きているものであるということです。ですから、どんなに小さくても、また本に出ていなくても、決して大きなものに遜色ない価値が認められるということです。これはどこへ行っても同じでしょうが、マスジドに溢れる街を語り終わる前に、再確認しておきたいと思った次第です。
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