イスラーム建築
 

【エジプト・シリア】
 

1.
ジャーミゥ・イブン・トゥールーン
2.
アルジャーミゥ・アルアズハル(エジプト・カイロ)
3.
ジャーミゥ・ティーラーン(レバノン:トリポリ、著者撮影)
4.
マドラサ・ハサン
5.
マスジド・ムハンマド・アリー(エジプト:カイロ)
アッバース朝以降は、大帝国が分裂した後ですから、マスジド建設もそれぞれの地方ごとに特色を出しながら進められる時代に入ります。それは大きく言えば、エジプト・シリア方面、北アフリカ・アンダルシア方面、イラン、トルコ・中央アジア方面、そしてインドに分けられます。各地方の特徴的な発達に加えて、それらの間での相互の影響ももちろんあったわけですが、目立った影響が見られる場合は特記することにいたします。

1.トゥールーン朝(868−905年)
アッバース朝の下でその宗主権を認めながら、すでに各地の分裂傾向が見られました。すでに本書「その5」で述べた、チュニジアのアグラブ朝もそうでした。
トゥールーン朝は、イラクのサーマルラー出身の軍人イブン・トゥールーンがエジプトに作り、その後シリアにも支配を伸ばしたものでした。ですから彼がカイロの南方面に建てたマスジドはその名前を取って、ジャーミゥ・イブン・トゥールーンと呼ばれますが、これはサーマルラーのマスジドに倣ったものとなっているのも不思議はありません。もちろんこれが彼の建設した唯一のものではなかったのですが、主要なものとしては、何をおいてもジャーミゥ・イブン・トゥールーンを挙げることになります。

完成は879年でしたが、その後幾度かの修復を経ながらも、当初の姿を極めてよくとどめていることが最大の特徴でしょう。そしてこの保存度の良さから、アッバース朝時期の建築物全体の中でも、代表的なものとされるようになりました。
その建物の特徴としては、まずイラクと同様に、ミイザナの周辺を螺旋階段が取り巻いているスタイルになっているということです。ただしイラクと異なり、一階は四角形、二階は円形、三階と四階は八角形をした塔になっています。ただし八角形の部分の建造は、初期ではなく時代はずれるようです。このミイザナはマスジド構外の北側にありますが、構内へは高い渡り廊下で結ばれています。また中庭の中央には泉があり、その上にドームをかぶせた楼閣が置かれましたが(10世紀はじめに崩壊したが、その後再建)、その代わりに礼拝堂の上にはドームはありません。この楼閣の上のドームは見たところ、ただ土の塊と言うだけで、その純朴さというか単刀直入な素朴さには、本当に心を打つ強さを秘めています。

このほかの特徴としては、長方形ではなくて、一辺が約160米の正方形の敷地に建てられていること、礼拝堂と中庭を結ぶ戸口は設けられていないこと、また礼拝堂の中の壁は木彫りの彫刻で飾られているが非常に清楚な印象を保っていることなどが挙げられます。またダマスカスのアルジャーミゥ・アルウマウイーもそうでしたが、ミフラーブが同一方向にいくつもあることも指摘されます。またカイロの市民生活と隣り合わせの地点にあるのですが、このマスジドの場所は少し盛り上がった地形の上に建てられているので、楕円形に丸くなって展開した階段を登ってから構内に入るような構造になっています。

以上建築物としての特徴はいくらも挙げられるとしても、最大の重要性を持つことは、それが実に清楚な印象であり、どれだけ静謐な雰囲気を醸し出しているかということです。著者は何人もの日本人を連れてゆきましたが、ほとんど全員そのような感想を漏らして、しばらく動かなくなることがしばしばです。それほど日本人にも訴えるものがあり、それはあえて言えば、侘び、寂びの世界にも通じるものがあるように見えます。特に他の土地で、華美な装飾のものや、オスマン・トルコなどの権力誇示型のマスジドを見せられると、ジャーミゥ・イブン・トゥールーンではこのような感銘を深くするのです。

2.ファーティマ朝(909−1171年)
砂漠の民ベルベルをたくみにまとめて、チゥニジアの方面でファーティマ朝が成立しました。これはシーア派の政権としては、イスラーム世界で史上初です。その後、969年にはエジプトを支配下に置き、そこからさらに西はモロッコ、東は紅海、シリア方面にまで勢力を伸ばしました。その最盛期は第4代カリフ・アルムイッズのときで、名将ジャウハル・アルサクリーが大活躍して実現したことです。カイロの建設も彼らの尽力によっています。このような時勢ですから、この時代の建築活動最大の産物は宮殿だったようですが、それらはすべて破壊され、現存するものは一つもありません。ただしこの頃になると古文書は豊富で、それから当時の宮殿の様子は大半判明しています。

以上のような状況の中で、マスジド建築はしっかり生き残ってきています。また単に残っただけではなく、教育上いわばイスラーム世界全体の総本山のような役割を果たし、今日もその勢いを失っていないマスジドがこの時代、972年に作られました。それは、アルジャーミゥ・アルアズハルです。教育機関として発展したアズハルでは、その課程を修了するとアーラミーヤと称する学位を授与するようになりましたが、それは全イスラーム世界で最高位の知識を証明するものとして、広くその権威が認められたのでした。このアズハルという名前の由来は、預言者ムハンマドの娘で、第4代正統カリフ・アリーの妻ファーティマの綽名であった、アルザハラーから来たとされています。

当初アズハルはきわめて単純、簡素な建物でした。その敷地は85米×70米と決して大きくはなかったのですが、左右両脇の方でも礼拝することを想定して設計されているところは、狭い面積に最大人数を収容しようとする都会型の発想と言えるのかもしれません。またキブラの方向には、現在6個のミフラーブがありますが、元々は13個あったとのことです。

これだけシンプルなものであったのに、後代様々に増改築が重ねられてきました。たとえばミイザナは当初のもの以来3回も完全崩壊したのですが、その後増築を重ねて、現在では、6本あります。そしてそれらは4つの異なる時代のモデルに基づいています。またドームももともとあった中央のものに加えて、左右に二つ新たに加えられました。さらに北側側面に、学校施設が追加されました。また建物の内壁を飾るタイル文様は、ミフラーブ当たりを除いてはファーティマ朝時代のものはほとんど残されていないようです。最も重要な増築だとされるのは、1753年、キブラ側の南側に新たに4列からなる新たな礼拝堂を追加したことでした。この新礼拝堂は元のそれよりも少し地面の盛り上がった地点に作られたので、隣同士ではあっても新しい方が飛び上がった格好になりました。またその中にはまた独自にミフラーブも設けられました。こうしていつの間にか、このマスジドは実に重層的な構造に膨れ上がったのでした。

1961年、アズハルはエジプト全体の改革努力の中で、伝統的なイスラーム・アラビア語教育を残しながら、通常の大学システムに切り替えられて、アズハル大学となりました。それでもまだまだ、アズハルのイマームや大学総長の発言には相当の影響力があり、いつも新聞などを賑わせる種になっています。アラブ各国で有力な大学が出現し、またイスラーム・アラビア語教育についてはサウジアラビアなども、急速に実力を発揮しつつあります。しかし千年の歴史には、まだまだそれ相応の慣性の力があるようです。 
   
ファーティマ朝時代のマスジドとして、次に見るのは、マスジド・アルハーキムです。990年に建設が始められ、1013年に完成しました。完成当時のカリフ・アルハーキムの名前を取って、命名されました。これは規模の大きさでは、ジャーミゥ・イブン・トゥールーンについで、カイロで第2番目とされるものです。そして古さでは、アムルー・ブン・アルアース、イブン・トゥールーン、アズハルについで、4番目です。

このマスジドは建設当初、カイロがまだ小規模でありその外に位置していました。しかしファーティマ朝歴代先祖の墓地の近くであるので、一家にとって神聖な場所としてそこが選ばれたと思われます。また外壁にも文字文様が入っていることは、このマスジドの特徴の一つですが、その意図は民衆にファーティマ朝カリフ統治の思想を知らしめることにあったようです。

建物としてみるとき、礼拝堂の中は五列に仕切られ、三個のドームが中央と左右両方にあることなどは、アズハル様式です。またミイザナは、キブラでない方向で、西と南の二方向の角に設けられています。しかしその二つのミイザナの形は、一方は円筒形、他方は四角形の上に円筒形の二重構造になっているのが特徴です。さらには三つのドームも、それぞれ円形、四角、八画というように異なっています。堂内の装飾も円形や六角形など、変わった文様が目立ち、これはシーア派政権として、ファーティマ朝が政治的に持つ異色性あるいは背景の複雑さを反映しているとも言われます。

このようにこのマスジドは、内容はほとんどアズハルと同じか、あるいはそれ以上の構えだったのですが、やがて人は振り返らなくなりました。そして20世紀に入ってから修復されるまで、かなりの荒廃ぶりを見せたのでした。やはり一家のためのものであるということで、結局人の心が離れてしまい、幾世紀にもわたりアズハルに大きく水をあけられる結果を招いたのでしょう。

11世紀、ファーティマ朝後半になると、たくさんの信者を集めるタイプのマスジドはあまり建てられなくなりました。マスジド・アルアクマル(1125年建立)のような、むしろ都会の中で小型化したのが、現在のカイロの大半のマスジドのタイプであるわけです。また日本で言うと個人の持仏堂のようなもので、多くはシーア派の聖人を奉るために作られました。その諸例としては、マスジド・アルジュユーシー(1085年建立)、マスジド・サイイドナー・アルフセイン(1155年建立)、マスジド・アルサーレフ・タラーイウ(1160年建立)、マスジド・アルサイイダ・ルカイヤ(1133年建立)などがあります。これらの持仏堂は、マスジドではなくて、シーア派風にマシュハド(霊廟)とも呼ばれるくらいです。
  
3.アイユーブ朝(1169−1250年)
十字軍を追放したサラーハ・アッディーンが樹立したアイユーブ朝(スンナ派)は、マスジド建設には大きく貢献しませんでした。軍事に忙しかったことが大きな原因で、その代わりに城や砦構築には成果を挙げました。アレッポ他シリア各地、カイロの城址は今もその雄姿を誇っています。もう一つの理由は、大きな都市ではすでにマスジドは人口との関係で、それなりに必要を充足していた面があります。ですから、マスジド改修、増築の話は少なくありませんし、イスラーム学校の建築、地方の小都市でのマスジド建立は続けられました。   
   
4.マムルーク朝(1250−1390年,1382−1517年)
サラーハ・アッディーン自身はクルド人だったのですが、アイユーブ朝はしきりにトルコ系を連れてきて兵隊に仕立て上げました。ところがそれが勢力を上回って、マムルーク(奴隷)王朝が成立しました。その兵舎がナイル川(海の意味ですがナイル川の別称でバハル)の島に設けられた時代を、バハリー・マムルーク、そして城砦(ブルジュ)の中に設けられた時代を、ブルジー・マムルークと呼んでいます。これらは同じトルコ系でも出自は異なっていました。

マムルークは自分の権勢誇示のためもあり、カイロ郊外に出てでもマスジド建築に勢力を削いだので、ここに巨大マスジド時代が始まることになります。社会的には日本で言うと江戸幕府の後押しを得た当時の仏教寺院のようなもので、それが与える印象として、権力的な強さの反面どこか暗さを感じさせるところまで、よく似ているのではないかと思います。

巨大建築を生んだもう一つの背景は、ムスリムとなった奴隷の子供は自由人となりますから、奴隷である支配者の子供は親の地位を原則として継げないという事情がありました。そこで支配者は自分の財産を相続対象からはずし、使用は宗教的目的に限られる寄進制度(ワクフ)に委ねたため、それが潤沢にマスジドや支配者とその一族の墓廟、学校、病院、宿泊所などの建設に当てられたということです。そしてこれらの建物を合体させ、まとめて一緒に建てられるスタイルで、マドラサ形式が誕生したことも、巨大建築誕生の一因となりました。
   
これらの建造物は、現在のカイロの東側部分で突き出している城砦をはさんで南北4キロ余りの道のりに勢ぞろいした格好になっています。それは言わばマムルーク建築の「銀座通り」とも言えます。その最北端にあるのが、初代マムルーク・スルタンのジャーミゥ・バイバルス1世です。その巨大なドームはミフラーブの上だけではなく、礼拝堂の幅の半分くらいを覆うかっこうになっていますが、これはアジアから彼が一緒に連れてきた、イラン系技術者の影響と言われています。

それより南へは、バハリー・マムルーク時代のマスジドとして主要なものに、アルマリダーニー、マスジド・アルナーシル・ムハンマドとそれぞれスルタンの名前を冠したものがあり、病院などと合体されたタイプとしては、マドラサ・アルナーシル・ムハンマド(上のマスジドとは別棟)、ジャーミゥ・カラウーン、サラール及びサンジャル・アルジャウリーなどが並んでいます。すべてスルタンの名前が付されています。これらの凡てについてその特色などを記すことは、相当気の長い話になります。そこでこの中から一番目立つものに限って、一つ記します。
これらの中で規模も、また町行く人への強烈なイメージと言う点でも突出しているのは、1363年完成の、マドラサ・ハサンです。これは約8千平米の建地面積の建物の中に、マスジド、4イスラーム法学派の学校、墓廟、孤児院、病院、バザール、水塔、風呂場、台所、更にはそれらの職員の生活施設などあらゆる機能を含んでいます。スルタン・ハサンは政治的には弱い立場でしたが、国庫から建築費を秘密に流してまで建設に務め、その二人の息子はそこへ埋葬したのですが、その後からハサン自身は暗殺されて遺体はそのまま行方知らずで、結局そこには埋葬されずに終ったと言う悲劇まで付いています。
   
次に全体的に言うと、これらの建造物の外壁は何れも土色で、暗い印象であると上に述べました。しかし内部は少しイメージが異なることが少なくありません。それはしばしばイランや中央アジアから職人が連れられてきては、トルコ石色の澄んだ水色をタイル文様で導入したからです。また上でバイバルス・1世のマスジドに付いて、ドームがよほど大きくなっていると言いましたが、その反対側の入り口の上に、主たるミイザナとしては一本だけ設けられるスタイルが一般的になったのも、両マムルーク時代の特徴として挙げられます。これにもイランなどの影響があったとされています。この時期に、マドラサ形式の建造が活発になったことについて、もう少し突っ込んで述べておく必要があるでしょう。思想的にはシーア派の影響を早く克服するという課題があったため、スンナ派の宗教指導者養成を早急に進める必要がありました。そのための総合学校、あるいはコンプレックスとして、マドラサ形式が重宝されたことは容易に理解できます。また主要都市ではマスジドは、人口比との関係でかなり需要を満たした感があったこともあります。そこへ墓廟を設けるという習慣が、ファーティマ朝以来盛んになり、またマムルーク朝で支配者となったトルコ人の影響もあり、益々広まりました。もちろん墓を作ることは、イスラームでは元来忌避されているのですが、聖人とされた人の墓参り(ジヤーラ)などは盛んに行われ、当時からその是非をめぐって議論されていたくらいです。建築物の構造としては、イランからイーワーンという大きな部屋を周囲の回廊に沿って設ける形式も導入され、マスジドとしての礼拝の場所はそのイーワーンの一つで済ませるくらいに、墓中心になる場合もありました。本末転倒と言うべき状況ですが、文化や文明というものは得てして、その極端まで走り切ってしまう勢いがあるものなのでしょう。
   
ついでブルジー・マムルークの時代に入ります。正しく建設ラッシュといえる状況だった様で、この時期のものと確認されている建築物はカイロに133個残っています。それらの一つの共通した特徴は、当時すでに新規建設のための適当な空いた土地が見つかりにくくなってきていたのですが、権勢誇示で相変わらず見る人の目を驚かすために、今度は一般に建物は高くなってきたということでした。
それとこれほど活発だったのにもかかわらず、中東全般はオスマン・トルコ支配の下でオスマン様式が普及したので、マムルーク・スタイルはエジプト・シリアの外には余り出ることがなかったということです。ですからその圧倒的な量と威厳に満ちた様子が、エジプトやシリアの地域外に広く知られるようになったのは、西洋の研究者達がエジプトに入っていった、19世紀になってからでした。現在よく名前の知られたものだけ拾うと、次のようになります。マスジドでは、マスジド・アルムアイヤド、マスジド・カーンスーフ・アルグーリー、マスジド・イマーム・アルシャーフィイーなどが挙げられます。また様々な機能を合体してマドラサと普通呼ばれたものには、マドラサ・バルクーク、マドラサ・ファラジュ・ブン・バルクーク、マドラサ・イーナール、そしてマドラサ・カーイトベイなどが列記されます。ここでは一般に評価の高い、最後に挙げたマドラサ・カーイトベイに焦点を当てて、少し詳しく述べることにしたいと思います。

スルタン・カーイトベイは15世紀後半の、言わばマムルーク朝の中興の祖ですが、カイロだけではなくメッカ、メディーナ、ダマスカス、ジェルサレムなど各地で、約65のマスジド建設を進めたとされ、その建造物はいずれも繊細さと調和を重んじたもので、マムルーク建築の頂点と言われるています。カイロの北墓地と呼ばれる地区にある彼のマドラサは、マスジド、学校、墓、水飲み場などを、せいぜい40平米くらいの土地に組み合わせて建てられましたが、これが彼の立てたものの中で一番保存度が良いようです。その石造りのミイザナはもちろん一本ですが、40米に達し、デザインはそれまでの粋を集められ、マムルーク時代の特徴である大きなドームとのバランスも良く取れた格好になっています。また建物の外壁は、濃淡二色の石を横縞文様に組み合わせて、土色一色の権威的で暗い印象を払拭しています。

スルタン・カーイトベイのこれ以外の建造物についても一瞥しましょう。まずメディーナの預言者マスジドが1481年に大火に遭ったこともあり、メッカも含めて水飲み場などの増改築を多数進めました。またジェルサレムの岩のドームのすぐ西側には、カイロの例に倣ってマドラサを建てました。一度完成したものを見たスルタンはそれが気に入らず、カイロから技術者を連れてきて作り直させたという逸話まである代物です。また同じ敷地内の北側には、水飲み場を再建しましたが、これもそのデザインの良さで知られています。

さてここで話をシリアに少々移したいと思います。シリアはモンゴルの直接の侵略を受けたために、多くの建造物は破壊されてしまいました。バグダードと同じ運命にあったのです。そしてその後も、15世紀初頭、チムール帝の破壊と技術者のサマルカンドへの送還があり、シリアのマスジド建設の灯火は消えそうになってしまったのです。その中で挙げられるとすれば、数は限られます。シリアは北部のアレッポに、ジャーミゥ・アルアトルーシュという地方総督の名前を冠したマスジドが、1409年に完成しました。彼はバハリー・マムルークの初代スルタン・バルクークの代官でした。狭くなったカイロとは異なり、付属の墓地に十分面積が取れたところが異なり、またタイル文様の美しさでも知られます。
今はレバノンとなった南部の町サイダーには、アルジャーミゥ・アルウマリーが1291年に造られました。これは元々十字軍の城砦だったものを、造りなおして建てられたというところが面白いと思います。そして実はこの地域では、そのような例は少なくありません。ところがこれは1982年、イスラエルの空爆で破損してしまいましたが、すぐにレバノン人の努力で修復されたそうです。(写真はレバノン北部トリポリの街にあり、やはり十字軍の城から改築されたジャーミゥ・ティーラーン)

5.それ以降
以上でマムルーク朝時代は終わりを迎えました。そして始まったのは、オスマン・トルコの統治です。これはエジプトにとっては停滞の時代でした。経済的にも、ポルトガル人航海士バスコ・ダ・ガマによりアフリカ南端ケープ岬周りの航路が開拓されてからは、東西貿易の要路という価値がエジプトから急速に失われることになりました。カイロでオスマン・トルコ様式のマスジドとして知られるのは、マスジド・スレイマーン・バーシャ(1528年)とマスジド・シナーン・バーシャ(1571年)の二つです。またマムルーク朝時代のもの(1347年のマスジド・アクスンクル)を青と緑のタイルで改造して、青のマスジド、と呼ばれ親しまれるようになったものもあります。

オスマン朝から派遣された司令官がその宗主権を認めながらも、半独立の体制をエジプトに樹立したのが、ムハンマド・アリー朝(1805−1953年)です。全般には、日本の鹿鳴館時代のようなもので、近代化と伝統の狭間で揺れ動きました。ですから、現在はカイロの一つのメルクマールにもなっている、マスジド・ムハンマド・アリーは「バロック風」であるとされ、内部は凡てがアラベスクで飾られ、設計はギリシア人です。ミイザナの高さは82米で巨大なドームとともに、それが城砦の上に立っているので、いやが上にもカイロ訪問者の目に飛び込んでくるわけです。広間の大時計は、1846年、フランスのルイ・フィリプ王からの贈り物ですが、その時にエジプトから贈られたのは、パリのコンコルド広場に聳え立つオベリスクの塔です。

以上で、エジプト・シリア編を終了します。現在のカイロ市内には、約1万5千のマスジドがあると言われています。本書はそれを駆け足で見て回ったようなものですが、それでもかなりの大筋は掴めたかと思います。古いものにはやはり心の拠り所として、それなりの重さが現地の人にも感じられるのは、想像に難くありません。
しかし同時に心しておきたいのは、現存するマスジドは美術や建築の歴史研究の対象となることがあっても、現地では博物館の陳列品でもなければましてや骨董趣味で扱われるものではありません。それは生きた宗教信仰の切磋琢磨、専念の場であり、それは人々の間で日々生きているものであるということです。ですから、どんなに小さくても、また本に出ていなくても、決して大きなものに遜色ない価値が認められるということです。これはどこへ行っても同じでしょうが、マスジドに溢れる街を語り終わる前に、再確認しておきたいと思った次第です。


執筆:アミーン水谷
アラブ イスラーム学院研究員


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