イスラーム建築
 

【アンダルシア・北アフリカ】
 

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マスジド・コルドバ(スペイン:コルドバ)
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マスジド・コルドバ(スペイン:コルドバ)
今度は舞台をアンダルシアと北アフリカに移したいと思います。アンダルシアというのはイベリア半島の大部分なのですが、アラブが支配した部分をアラビア語で、アル・アンダルスと呼んだところからきています。ダマスカスのウマイヤ朝を支持していた勢力は、750年、同地で崩壊した後に、その拠点をアンダルシアに移したので、そこで文化が発達することになりました。その特徴は、繊細で瀟洒、と言えるでしょう。これは建築分野だけではなく、アンダルシア詩文を発達させた文学分野などでも言えることです。

イスラーム芸術がヨーロッパに及ぼした影響を考えるときには、当然このアンダルシアに通じるものが一番大きくなりました。その意味でも重要です。特に建築分野については、近代に至るまで何度もヨーロッパ各国はスペインで調査を行いました。そしてその様式に倣ったものをいくつも建設しました。その一例としてあげれば、1815−1822年、イギリスのブライトンに建てられた王宮は、まさしくアラブ風のドームをいくつも乗せた格好です。またロンドンの中心にある、レスター広場にはミイザナが二本立っているのに気づかれた人も少なくないかと思います。これもそのような、調査の結果を踏まえているものです。

1.後ウマイヤ朝(750−1031年)
この時代のマスジドとして代表は、なんといってもマスジド・コルドバです。またそれは建造物としては、マスジド以外も含めて、イスラーム建築全体の代表格にも数えられるものです。現状敷地全体は、縦190米×横140米の大きさですが、11世紀にスペイン統治下に入ってから、部分的にキリスト教教会に作り変えられ始め、最後に1236年には全体が教会ということになってしまいました。それから後もマスジドの礼拝堂の中に小教会の増設が続く有様した。しかしそもそもその場所にマスジド建設が始められたのは、もともとキリスト教会があったからだったということですから、これが歴史というものでしょう。

建設の初めはダマスカスから逃げて来てすぐの、785年でした。カリフ・アブド・アルラハマーン(在位756−788年)のときでした。当時の規模は現在の半分くらいで、ダマスカスのアルジャーミゥ・アルウマウイーに倣って造られたそうです。しかしそれ以来、マスジド増建は約3世紀にまたがって続けられました。主としては3段階の増築がありました。もちろん当初にそのような全体計画があったのではなく、各カリフや土地の名士が種々の追加工事を行って、全体としての美観を損なわずに拡張されたのでした。

建築物としての特徴は、礼拝堂や回廊にある細くて数多い支柱に見られるように、こまかく空間が仕切られて、全体が構成されているということです。この最大の原因は、東アラブ地域のようには、大きな石材が見つかりにくいということだったのですが、何と言う偶然でしょうか。しかしこの事情が、繊細で瀟洒、という造形表現の源泉にもなったのでした。一つのアーチにしても、上の部分の円弧は幾つもの小円に分かれています。広間の柱も巨大な太いものではなく、細いのが多数並び、しかもそれは細いために天井まで一気に届くのではなく、中支えの横張りで支えられています。因みにこの細い支柱が居並ぶ様は、アラブ人から見ると砂漠に並ぶナツメヤシの林を思い起こさせるそうです。繊細で瀟洒という表現世界が創られたのは、当然石材の小ささだけが要因ではありません。大理石の色も豊富にあったことが、それで鮮やかな文様を組み上げるのを可能にした面があります。更にはアンダルシアの伝統であり、その風土、人々の心根もあったことでしょう。

こういった事柄が絡み合って、小空間が目一杯溢れていてそれを埋める文様とともに、真に繊細で瀟洒な世界を作るのに成功したのです。アラブ人の世界観を論じて、それは全体を包括する論理体系ではなく、小宇宙の集合として認識するところにある、と言った見解があります。これらのマスジドの建造物を見ていると、まさしくこの小宇宙で構成される世界観を具現しているように見受けられます。いずれにしてもこの造形感覚は、やがて北アフリカへも広く受け入れられて行くことになります。
マスジド・コルドバのもう一つの特徴の一つとして挙げられるのは、そのミフラーブです。それはただ壁にある窪みではなく、一つの部屋に奥深く掘られています。そしてその壁には、コーランのほとんど全文が書かれ、さらには様々のイスラーム法上の記述もあります。このような形式になった背景ははっきりしません。元々あったキリスト教会の影響で、そのミフラーブの中で何らかの儀式が行われるようになったのではないか、との憶測もあります。

ちなみにその主ミフラーブの前全体が、格子で仕切られた大きなサイズのカリフ用のスペース(マクスーラ)になっているのも、他では見られない構造です。ただしこれは、当初のものではなく、10世紀半ば、カリフ・アルハカム2世の時に改造されてできたものです。このマスジドは国の中心となり、アンダルシアの文化活動はもとより、政治的な会合や裁判も行われ、土地の人の間では「名士のマスジド」と呼ばれていました。

2.アグラブ朝(800−909年)
バグダードのアッバース朝から北アフリカの統治のために派遣されたアグラブが、事実上独立したのがこの王朝ですが、結局一世紀の後、エジプトのファーティマ朝の勃興により滅亡してしまいました。文化的にはアッバース朝のものが出なかったのは当然かもしれませんが、建築物についてはより簡潔さを強調したことが、それなりの特徴を作り出しました。またシシリア島遠征により同地へアラブ・イスラーム文化を伝える結果となったことは特筆されます。

・チュニジアにあるアルマスジド・アルジャーミゥ(アルカイラワーン)については、ウマイヤ朝の時代の中で言及しましたが、アグラブ朝の時代には増改築が進められました。

・マスジド・ザイトーナは、700年、海軍力を伸ばすために現在の首都であり海岸都市のチュニスの街が開かれて、初めて建てられたものです。ただ864年、アッバース朝の勅命もあり改築されましたが、今日まで市民の関心と信心の中心となっています。四角のミイザナ、奥深い礼拝堂、礼拝堂入り口とミフラーブの上の二つのドームなど、北アフリカの様式そのもので、良く原型を保っていると見られています。

・マスジド・スーサはあまり知られていませんが、851年、チュニス北東の海岸近くに建てられました。二本のミイザナがありますが、中庭にある階段で回廊の上を横切り、そこからミイザナに上れる構造になっています。簡素な形状が海岸の日射を照り返しているのが印象的です。

3.ムラービト朝(1056−1147年)
西サハラから勢力を伸ばし、最盛期にはモロッコとアルジェリアの西半分そしてアンダルシアの南部も支配下に置いた、砂漠の民、ベルベル族の王朝ですが、建築の分野でも独特の貢献をしました。首都はマルラーケッシュに定められましたが、他にも有名な都市ではアルジェリアのトリムサーン、モロッコのファースがあります。これらの街の主要なマスジドは次のとおりです。

・ジャーミゥ・アルカラウィイーンは、808年建設され、ファースの街にあります。その後も増改築が続き、今ではダマスカスのアルジャーミゥ・アルウマウィー、カイロのアズハル、アンダルシアのマスジド・コルドバなどと並ぶ、マスジド建築の代表になりました。

その最大の特徴は、コルドバの瀟洒なところと東アラブの簡素さの融合といえるでしょう。屋根は切妻式で緑色のタイルが敷き詰められて、日本の瓦葺のようなデザインになっています。チュニジアのカイラワーンと間違いそうな名前ですが、それも当然で、カイラワーンから移ってきた人たちが住み着いて作ったのが、このジャーミゥ・アルカラウィイーン(カイラワーンの人間という意味)なのです。
ファーティマとマルヤムという名の二人の女性ムスリムがその増築に熱心だったとの、記録があります。二人ともチュニジアのカイラワーン出身でした。そう言われてみると、気持ち、日本で言う尼寺のような、きめ細かい女性的な風情がこのマスジドには、はっきり漂っています。

・マスジド・トリムサーンは、1136年に建設され、アルジェリアの首都アルジェの西約600キロにある街、トリムサーンにあります。ミフラーブの上と礼拝堂の真中当たりの上に、二つドームがありますが、それらはコルドバのものに似せられています。
   
4.ムワッヒド朝(1130−1269年)
ムラービト朝を征服したベルベル族最大の王朝で、首都は引き続きモロッコのマルラーケッシュでした。そしてこの間に学問、芸術が栄え、建築の上でもマグレブ様式を完成させたとされています。他方、アンダルシアへは中央から代官を送る制度をとっていたので、次第に掌握力は低下し、コルドバも1236年にはスペインの手に落ちてしまいました。この時代の主要なマスジドは次のとおりです。

・マスジド・アルクトビーヤは、1153年に建設され、マルラーケッシュにあります。約70米の高さのミイザナは全体が四角形の形になっていますが、美しいシルエットで知られています。上から10米の当たりのところで展望できるようになっており、そこからアーザーンが行われました。

・マスジド・ハッサーンは、1196年に建設開始され、モロッコのラバートの街にあります。敷地は180米×140米という大きなものですが、創始者のカリフが完成前になくなったために、支柱もミイザナも半分くらいの高さで工事がストップされたままに残されました。四角のミイザナと礼拝堂内の通路のT文字構造、そして奥深い礼拝堂などが、北アフリカの特徴として引き継がれています。

・この他スペインのセビリアの町には、73米のミイザナだけになった姿で残されたものがあります。このミイザナはやはり、北アフリカ共通の特徴である四角形で、マスジド・コルドバとともに当時の代表的なものとして知られています。

5.マリーン朝(1196−1465年)
元はパレスチナの地に住んでいた部族が移住してきて、ベルベル族化して創始した王朝です。ムワッヒド朝の弱った後に設立されました。1492年、アンダルシア全土がスペインのイザベラ女王の手に落ちるまでの2世紀間、同地でアラブの支配を延命させたことが功績であったとアラブ側では評価されます。ちなみに現在までもアンダルシアの喪失は、20世紀に入ってからのイスラエルによるパレスチナの侵食とともに、アラブが最も悔やんでいることです。

この時代の主要なマスジドは何れもマグレブ風の延長にあります。首都として新たに作られたファースの新市街にあるアルジャーミゥ・アルカビール(1276年建造)、そしてマルラーケッシュの街のマスジド・シーディー・イブン・サーレフ(1315年建造)などがあります。これらは凡てマグレブ風の装飾だけではなく、構造上も何れもミイザナは一本のみという共通点があります。また説教をするためのミンバルは、使わない時にはミフラーブにしつらえられた小部屋にしまうのが習慣となりました。コルドバの場合はミンバルをしまう目的であったとは言われていませんが、ミフラーブには奥まった部屋が付いていたことを思い出してください。
なおマリーン朝は、アトラス山脈に拠点を持つ別のベルベル勢力(ザイイニーヅ)との抗争にも力を注ぐ必要がありました。その山中への道のりにターザと称される街がありますが、そこのマスジド・ターザは12世紀に建設開始されたましたが、1294年にすべからくマグレブ風に完成させました。そのシャンデリアには、514個のランプがぶら下げられる壮大なものです。またドームの内装も、細美の極地です。

なおザイイニーヅ自身の山中のマスジドでは、前出のトリムサーンと呼ばれるところに遺構だけが残っているマスジド・アルマンスーラ(1303年建造)があります。そしてその近くにあるウッバードの街のマスジド・アビー・メディヤンは、マリーン朝の1339年に改造されましたが、きわめて保存度が良くその美しさは際立っています。
   
最後に、マリーン朝の建てたマドラサについて少々述べます。スーフィズムなどとの思想上の対抗関係があり、マスジド兼学校兼スーフィーの合宿所といったコンプレックス形式が好都合とされたわけですが、モロッコ国内に、特にファースに幾つか残されています。その建物はタイル葺の屋根で、壁面も含めて極細美の世界に浸ることが出来ます。
 
マリーン朝の信仰熱心さを推し量るのに格好の材料とされたのは、シルラーと呼ばれるラバト郊外の地点に残されている歴代の支配者の墓廟、マスジドなどの合体された建築物です。しかしこの壮大な建物は1755年の大地震ですっかり崩れてしまい、今ではかなりすさんでしまいました。
   
イスラームの歴史上、なぜかこのマリーン朝は余り脚光を浴びることがありません。しかしマスジド建設では、以上のようにマグレブ風の極地を示す、大きな足跡を残しました。その背景にあったのは、イスラームの財産寄進制度(ワクフ)による系統的な建設活動の支持(もう少し突っ込むと、マーリキー派法学が採用され、それによるとワクフは贈与者といえども個人的な管理を許さなかったということも大きく影響したとのことです)ということ、それからアンダルシアのようなキリスト教徒による激しい破壊活動を免れたということです。

なおアンダルシア最後のイスラーム王朝となったナスル朝(1232−1492年)のアルハンブラ宮殿は余りに有名ですが、同朝の宗教施設はほとんど跡形を残していません。  
 
6.ハフシード朝(1235−1554年)
上記のマリーン朝と地中海岸方面で対抗したのが、チュニス中心のハフシード朝でした。やはりベルベル族の政権です。チュニスにあるマスジド・カサバは1235年に建造されましたが、緑色のタイルが使われるところなどは完全にマグレブ風で、またミイザナの形状も同様で、四角になっています。これ以外には当時のマスジドは余り残っていません。
他方この政権がエジプトなどから、学校、墓廟などがマスジドと合体した造りを初めて導入したことで、一つの貢献をしたと考えられています。これらが上のマリーン朝のマドラサ建造につながっていったのでした。
またハフシード朝は以前に触れた、チュニジアのジャーミゥ・アルカイラワーンの増改築にも熱心でした。

7.それ以降
これ以降は、地中海岸の北アフリカはオスマン・トルコの支配下に入ります。他方モロッコは、ヨーロッパとトルコの狭間にあり、文化的には坩堝の中にはまったように、しばらくの間、孤立化の道をたどりました。外部との文化的な接点は、メッカへの巡礼が一番の機会になっていました。

マリーン朝の後、1511年にベルベル族のサアド家が預言者ムハンマドの直系であるとして、マルラーケッシュを拠点に勢力を張りました。もちろん建築様式としては、前代のマリーン朝を越えるものではありませんが、いくつか現存のものを残しています。知られているものでは、マドラサ・ベン・ユースフ(1565年建立)です。マリーン朝のマドラサはファース中心でしたが、その潮流を受け継ぎながら、今度はマッラーケッシュにその華が開いたのです。壁はタイル、漆喰、極彩色の木彫りなどで、埋め尽くされていますが、決して派手な色ではなく、光と影の交響曲を奏でています。

17世紀以降は20世紀に入るまで続く新体制が、ファースの西にあるメクネスの街を中心に始まります。そこにはマスジドを含んだ形でいくつかの巨大な宮殿が、アンダルシアのアルハンブラ宮殿などに倣って建設されました。

以上の北アフリカのマスジドは、その素晴らしさの割には注目されることが比較的少ないまま、時は過ぎ去っています。だからと言って、別に慌てる必要もないということでしょう。素晴らしいものは、浮世の世評とは関係なく、厳然とその存在を、時空を越えて主張しているからです。そしてそのような例はいくらでもあるのが、イスラーム世界です。


執筆:アミーン水谷
アラブ イスラーム学院研究員


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