十字軍の歴史
 

【第5回十字軍遠征の失敗】


 読者の皆様、第5回十字軍遠征は、ローマ教皇オノリウス3世の呼びかけによ るもので、ムスリム国家を攻撃しなかった第4回十字軍遠征に代えるためのもの でした。

 この遠征を指揮したエルサレム王、ジャン・ド・ブリエンヌ(ハンナー・ド・ ブリエンヌ)は、遠征軍を率いてシャムへ行き、アッカ(アッコン)をめざし、そ こから更にドムヤート(ダミエッタ:当時のエジプト・デルタ地方の首府)へ向か いました。そして、ヒジュラ暦615年ラビーウ=ル=アッワル月4日―西暦 1218年5月―、十字軍の陸軍と海軍はドムヤートに侵攻しました。

 そこで、父アル=マリク・アル=アーデル(アイユーブ朝のスルタン)のエジプト 副王だったアル=カーミルは、十字軍と対戦すべく出陣しました。アル=マリ ク・アル=アーデルはシャムで病の床にあったのですが、やがて亡くなり、ア ル=カーミルが統治権を継ぎました。そして彼は十字軍と戦い、ドムヤート(ダ ミエッタ)を解放しました。
 それから、ナイル川西岸で彼らを攻撃し、のちに「アル=マンスーラ(勝利の 町)」として知られるようになった場所で、ムスリム軍は大勝したのでした。

 アル=カーミルはナイル川の堰を切り、水で溢れるすべての水路を開くよう命 じました。そのため、氾濫する川の水があらゆる方向から十字軍を囲み、彼らの 動きを妨げました。そのため、十字軍はドムヤートから撤退することを条件に休 戦を求めました。ヒジュラ暦618年―西暦1221年9月7日―、アル=カー ミルはその求めを歓迎し、十字軍は船でヨーロッパへの帰途につきました。そし て、ジャン・ド・ブリエンヌは敗北者としてシャム(シリア地方)へ帰ったのでし た。

 こうして、第5回十字軍遠征は失敗に終わりました。そのため、ローマ教皇 は、ドイツ皇帝フリードリヒ2世に対し、前回の失敗を償う新たな十字軍遠征を 行うよう、強く圧力をかけました。

 残念なことに、その頃、統治権をめぐって、アル=マリク・アル=アーデルの王 子たちの間に争いが起こり、アル=カーミルはフリードリヒ2世に対して、エル サレムを譲渡するという条件で、兄アル=ムウザム・イーサーとの政争における 支援を求めました。フリードリヒはその申し出を歓迎し、小隊を率いて、第6回 十字軍遠征でシャムへと進軍しました。

 しかし、皇帝がアッカ(アッコン)に到着してみると、シャムの政情は変わっ てしまっていました。アル=ムウザム・イーサーは既に亡くなり、アル=カーミル は、もはやフリードリヒの助けを必要としてはいなかったのです。そこで、両者 間で取引が行われ、最終的に、西暦1229年2月、ヤーファ(ヤッファ)協定 が結ばれました。その協定の条項には、10年間の休戦と、エルサレムの十字軍 への返還が含まれていたのでした。

 それでは、次回は、第7回十字軍遠征についてお話しましょう、インシャー アッラー。



筆者:リハーブ・ザハラーン

(2007年5月29日更新)

                

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