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【アラブ栄光の歴史 2】
〜古代の文明-2〜

“エデンの園”の跡というバハレーンのディルムンの遺跡。
“エデンの園”の跡というバハレーンのディルムンの遺跡。
竪琴の装飾・牡牛頭部。ウル出土。紀元前2600年。
竪琴の装飾・牡牛頭部。ウル出土。紀元前2600年。


バクダットの中央に流れるチグリス川。ユーフラテス川とともに輝かしいメソポタミア文明を花咲かせた大河。

ハトラに建つサトナルク2世の娘ドゥシャファリの像。
ハトラに建つサトナルク2世の娘ドゥシャファリの像。
ウルの軍旗。(平和の図)
ウルの軍旗。(平和の図)
有翼の精。ニムルド出土。前9世紀
有翼の精。ニムルド出土。前9世紀

ウルのジグラード(聖塔)。古代メソポタミアの宗教的建造物。
ウルのジグラード(聖塔)。古代メソポタミアの宗教的建造物。
バビロニアのライオン。人間は王の被征服民を示す。
バビロニアのライオン。人間は王の被征服民を示す。


ディルムン
アラビア湾の中ほどにあるバハレーンは、古代メソポタミア時代にディルムンと 呼ばれたところで、旧約聖書の“エデンの園”がここにあったという。ディルム ンは、紀元前2000年頃を絶頂期として、メソポタミアとインダス地方を結ぶ 中継貿易として繁栄した。さらに当時のアラビア湾での文明の拡がりは、ク ウェートのファイラカ島、アブダビにまで及んでいた。メソポタミアに最初の高 度な文明を築いたシュメール人も南の海のディルムンから来たといわれている。

メソポタミア文明
エジプトからシリア、パレスチナ、メソポタミアをつつむ地域は、「肥沃な三日 月地帯」として古代文明の揺籃の地であった。

とりわけ、チグリス、ユーフラテス両河にはさまれたメソポタミアは、紀元前 7、8000年頃から世界のどこよりも早く、農業、牧畜による生産を開始し、 高度の文明を築きあげた。それまで数十万年にわたり狩猟や採集といった生産性 の低い獲得経済にとどまっていた人類は、この時になって小麦や大麦の栽培や家 畜化しやすい羊、山羊、牛などを飼育することによって生産力を飛躍的に向上さ せたばかりか、犂の発明や人工灌漑による農地の拡大によりメソポタミアの村落 を神殿を中心とした都市国家に発展させたのである。

イラク南部に最初に住みつき、この都市文明を繁栄させたのは、「歴史はシュ メールに始まる」の言葉のように、記録のための文字を発明したシュメール人 で、治水、生産、防衛を支配する権力者の下にウルク、ラガシュ、ウルなどの都 市国家を発展させた。

このシュメール文明を受けついだのが、北メソポタミアから移動してきたセム族 のアッカド人で、アッカド王国は、紀元前2350年頃にはサルゴン王の下に強 大な国家として栄えた。このアッカド人に代って王朝を興したのは、同じセム族 のアモル人で、バビロンを首都とする古代バビロニア王国の第6代のハンムラビ 王は、隣国に遠征し、その領土の拡張を図り、内政面では「目には目を」で名高 い同罪刑に基づく法典を制定したり、運河の開通や灌漑の整備によって農業を振 興させ、メソポタミアをオリエント第一の穀倉にまで発展させたのであった。

またシュメールやアッカド時代の宗教、文学、美術、建築等も集大成され、種々 の学問が進歩し、バビロンは旧約聖書の中でバベルとして描かれているように、 様々な人種が交流し、多様な言語が話され、その社会生活は極めて国際的な拡が りをもっていた。天文、暦法、数学、農耕、法律、文学などを発展させたバビロ ニアの文明には、今日の殆んどの文化の原形が見い出されるといわれる程であ る。60進法、7日を1週間とする制度が確立されたのもこの時代である。

粘土版に葦のペンで書く楔文字もセム族に引継がれ、ハンムラビ法典ばかりでな く、神と人との愛のドラマや不老永生をテーマにした雄大な“ギルガメシュ叙事 詩”を今に伝えている。

やがて、バビロニアもアッシリアやペルシャの大帝国に征服され、ついでアレキ サンダー大王の東征を迎えることになる。


筆者:阿部政雄
転載:「アラブ案内」グラフ社(1980年発行)

                

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