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ナポレオンの衝撃
13世紀の蒙古軍のバクダット攻略や内部分裂によって衰微していたアラブ世
界は、16世紀以降はオスマン・トルコ帝国の支配下、世界史の舞台から遠のい
ていった。
この沈滞したアラブに“黒船到来”の警鐘を鳴らしたのが、1798年のナポ
レオン軍の侵攻であった。翌年、イギリスとの海戦に敗れたナポレオンは、シリ
アでも敗北、指揮をクレーベル将軍に託して帰国してしまったが、ヨーロッパの
強力な近代兵器の威力とその科学技術の高さは、エジプト人に大きな衝撃となっ
た。
アリ王朝とオラビ(エジプト)
この外敵フランス軍との戦闘の中で急速に台頭してきたアルバニア兵の下級士
官、モハメッド・アリは、権謀術数の末、ついに1805年、モハメッド・アリ
王朝を樹立し、富国強兵に努め、一時期、シリア、サウジアラビアにまで国力を
伸張させたが、列強の干渉でその野望は挫折した。
モハメッド・アリの死後、息子たちによるスエズ運河の開発は、国を財政的危
機に陥れ、英仏の二重管理の重圧を招いた。これに反発して1882年にひきお
こされたオラビ・パシャの民族的反乱は、イギリスに鎮圧され、こうしてエジプ
トは1882年にその植民地となってしまった。
マグレブ諸国(北アフリカ)
なお、同じ頃、フセイン朝のチュニジアではアフマド・ベイが、アラウィ朝の
モロッコでは、ハッサン1世らが近代化政策を推進したが、財政危機から外債を
増加させ、フランスへの従属の道を辿ることとなった。
ところで北アフリカへのヨーロッパの最初の侵略は1830年のフランス軍に
よるアルジェリア攻略であった。民族的英雄アブデル・カーデルは18年にわた
る抵抗運動の末、1847年ついに屈服させられた。
筆者:阿部政雄
転載:「アラブ案内」グラフ社(1980年発行)
(2007年2月20日更新)
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