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【日本とアラブの交流 1】
〜第二次大戦前〜

東海散士著「佳人の奇遇」。明治中期のベストセラーとなった政治小説。1890年刊。
東海散士著「佳人の奇遇」。明治中期のベストセラーとなった政治小説。1890年刊。

ハーフェズ・イブラーヒームの詩「日本の乙女」1905年。
ハーフェズ・イブラーヒームの詩「日本の乙女」1905年。
初のメッカ巡礼者、山岡光太郎著「アラビア縦断記」1909年刊。
初のメッカ巡礼者、山岡光太郎著「アラビア縦断記」1909年刊。
志賀重昂の警世の書「知られざる国々」1923年刊。
志賀重昂の警世の書「知られざる国々」1923年刊。

M・カーメルの銅像。
M・カーメルの銅像。
カイロ郊外、ヘルワンにある日本庭園。
カイロ郊外、ヘルワンにある日本庭園。
1938年(昭和13年)に建立された東京代々木上原の回教寺院。
1938年(昭和13年)に建立された東京代々木上原の回教寺院。
戦時中発行されていたイスラム圏の研究誌。
戦時中発行されていたイスラム圏の研究誌。



 山間の谷間のせせらぎが、大、小の川をとり入れて大河となって海に注ぐよう に、国と国との交流も、人の出合から出発して次第に大きく拡がっていくものだ と思う。

 遠くは正倉院の御物の中に保管されているペルシャ楽器が物語るように、中国 を経由した中東との交流もすでに奈良朝時代に始まっていた。

 しかし明治維新後、アラブが登場する最初の注目すべき作品は、明治中期のベ ストセラーだった政治小説「佳人の奇遇」であった。これは元会津藩士の芝四郎 こと東海散士が、独立運動に挺身しるスペイン、アイルランドの美少女ととも に、エジプト、スーダン、安南、ポーランドなど世界の被圧迫民族のために活躍 する国際的スケールの一大ロマンであった。

 一方、日露戦争に勝利し、近代国家建設に邁進する日本を礼讃した長詩「日本 の乙女」を書いたのは“ナイルの詩人”とうたわれたエジプトのハーフェズ・イ ブラヒームであった。20世紀初頭の国民党党首、ムスタファ・カーメルも「日 昇れる国、日本」を著し、「日本に学べ」と同胞を励ました。大正の末、カイロ の郊外ヘルワンに造られた“日本庭園”も、エジプト人の日本への思慕の表われ といっていい。

 日本で始めてメッカの大祭に巡礼を行ったのは、日本イスラム界の大先覚者、 山岡光太郎であった。その見聞録「アラビア縦断記」は貴重な歴史的記録であ る。さらに未来を巨視的に見すえる優れた地理学者、志賀重昂の「知られざる 国々」は、中東の生き生きしたレポートと日本の果すべき役割を指摘した警世の 書として今なお味読すべき名著である。

 日本で最初の回教寺院(モスク)が東京代々木上原に建立されたのは昭和13 年である。林銑十郎、頭山満といった人々が、援助者として名を連ねている事実 の中に、アジアのイスラム圏への当時の軍部の関心が表われ始めている。

 戦前、戦中にかけて発行された「回教圏」、「回教世界」などの雑誌には、当 時の国策遂行の論文ばかりでなく、今日のオリエント・アラブ研究の土台となっ た前嶋信次、杉勇博士ら先駆的学究の業績が積重ねられたことも忘れられてはな らない。

 総じて第二次世界大戦まで、植民地化の桎梏下にあったアラブの人々は、古く はロシア、近くは米英など世界の大国を向こうにまわして闘った日本の姿が、い わゆる“手の汚れていない”ことも幸いして“英雄を待望する”その心情の中で 美化されて映り、一方西欧型近代国家をめざし“脱亜入欧”の道をひた走りに走 り続けてきた日本にとって、アラブの存在はまだ遠いものであったと言えよう。



筆者:阿部政雄
転載:「アラブ案内」グラフ社(1980年発行)

(2007年12月25日更新)

                

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