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石油戦略発動
1973年の第四次中東戦争の勃発に伴って、アラブの石油戦略が発動され
た。その目標は資源ナショナリズムによる石油価格の大幅値上げとパレスチナ人
民の正当な権利回復であった。
当初、非友好国と指定され、石油供給5パーセント削減の対象とされて、いわ
ゆる“オイル・ショック”に見舞われた日本からは、急きょ、三木武夫副総理、
小坂善太郎前経済企画庁長官が特使としてアラブ15ヶ国を訪問し、日本の立場
を説明、協力を求めた。
この特使の訪問は功を奏し、日本は友好国に変わり、石油危機は回避された。
当時、川崎寛治国際局長らの代表団を派遣した日本社会党も、1978年のジュ
ンブラット追悼集会に代表団を送り、パレスチナ・アラブとの連帯を強めた。
しかし、この“オイル・ショック”はどれだけ日本人に理解されただろうか。
もしあの当時、アラブが打ち出した石油戦略の目標が本当に理解されていたな
ら、日本は他国の資源をがぶ飲みにする“石油づけ”の経済構造への反省をもっ
と早く行っていただろうし、“民族の主権”や“人間の尊厳”をめざすパレスチ
ナ人民の民族的願望を把握することによって、第三世界に目を開く日本の新しい
開国に成功していたはずである。
当時、雑誌「アジア」を通じて筆者がインタビューした二人のアラブの大使の
意見は今も鮮やかによみがえってくる。
「私は日本の報道機関が、日本が“親アラブ政策”に転換したと盛んに報道した
のに全く驚きました。われわれアラブは一度たりとも日本に親アラブ政策をとっ
てほしいと言ったことはありません。われわれが望むのは、日本が“親アラブ”
でなく、“親正義”の政策を打ち出して欲しいというのです」
「親アラブ政策は親正義政策といわれるべきであり、これは親日本政策でもある
のです。われわれは日本人を偉大な国民だと思っていますが、偉大であるために
は正義の実現のため努力しなければならないのです」
1976年、経団連、中東協力センターなどとの共催による“OAPEC東京セミ
ナー”が、アラブ首長国連邦、クウェートの石油相らアラブの要人二十数名の出
席を得て開かれ、エネルギー、インフラ整備、資源加工業などについて熱心な意
見交換を行った。このセミナーはその後のアラブ・日本間の港湾、都市計画、技
術移転、電気通信などの国際会議として発展した。
また1977年には永野重雄日商会頭を団長とする大型経済使節団、さらに翌
年9月には現職の総理として初めて福田首相、園田外相らがアラビア湾岸諸国を
訪問した。
園田外相は、帰国後の記者会見で「従来、石油のパイプを通すことに専心して
いたが、これからは心のパイプを通わせたい」と語った。
財界資源派の指導者中山素平氏がしばしば指摘しているように、中東・アラブ
地域は、わが国にとって最重要地域である。もう、総論の繰返しではなく、アラ
ブ諸国のニーズに応えるキメの細かい協力プランが立案され、かつ実行が求めら
れている時期が到来したのではないだろうか。
筆者:阿部政雄
転載:「アラブ案内」グラフ社(1980年発行)
(2008年3月4日更新)
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