イスラーム社会
 

【サウジイスラーム社会における個人の諸権利 2】


親愛なる読者の皆さん、今回も兄弟愛を実現する17の要素をご一緒に見ていく ことにしよう。前回はそのうちの5つを取り上げたが、今日はその続きである。

6.笑顔と良い言葉

 しかめ面というものは、例え彼自身が他の様々な点において優れた人格を備え ていたとしても、他人を遠ざけてしまうものである。というのも、人の顔という のは誰かと会う時に真っ先に目にする部分であるからだ。人は恐い顔をしている 人を見ると、まず彼への恐怖感から嫌悪感を抱き、彼を悪い人間、あるいは時に はプライドの高い人間と受け取ってしまうかもしれない。しかしいざ彼と付き 合ってみれば、彼の良い言葉遣いや性格に気付き、彼への疑心暗鬼を捨てて、彼 を寛容で信頼できる、正直で公正な人と見なすこともありえる。しかしもし彼が 顔をしかめているだけでなく、事実粗暴で荒々しい言葉を使う人であったら、そ の時こそ人は彼を悪い人と見なすであろう。そして多くの人は彼と付き合いたが らないだろう。というのもしかめ面で粗野な言葉遣いをするような人とは、余程 の用事がない限り誰も接したがらないものだからだ。その一方、人に微笑みと明 るさと良い言葉で接する笑顔の人は皆から近付かれ、親しまれ、話しかけられ、 愛されるだろう。例え彼の性格の別の部分において、悪い部分があることを知ら なかったとしてもである。

 そして笑顔と良い言葉の人は大抵、人付き合いも良いものである。ただある目 的の達成のために表面上そうする人たちは別で、それは偽善者の常である。そし てそのような人は付き合うことによって、その心の内が暴かれるものだ。このよ うな考えに相違はなく、誰もが生まれつきの本性でもって同意するところのもの ではないだろうか? 私は真っ先に同意する者である。そして前回私は「挨拶を 広めること」の項で、日本国民がその笑顔と挨拶で私の心に残してくれた良い印 象について話したが、一方では何か買うために店に入り、その店主のしかめ面を 見ただけでそこから何も買わずに出てくるということも度々あった。私の常とし てまず笑顔の感じのよい店主を探し、そしてそのような人から例えちょっと高い お金を出しても買うことにしているのだ。馬鹿げていると思われても、これが事 実である。そしてあなた方も買い物の際の自分自身をよく観察してみたら、きっ と同じようなものなのではないかと思う。誰もが人の快い笑顔と良い言葉を求め ているのだ。そうではないだろうか?

7.謙虚さと真実の許容

 謙虚さというものは人からの尊敬を招き、そうする者の評価を上げるものであ る。傲慢さはその逆で、それに値もしないくせに人々より上にあることを望むこ とであり、その見返りとして人々からの軽蔑を得る。傲慢さはアッラーとその預 言者ムハンマドがお嫌いになられたことであり、アッラーは傲慢さがかれの慈愛 を遠のける原因になるとして非難された。アッラーはこう仰られている:「アッ ラーは自惚れ屋で傲慢な輩を愛でし賜らない。(女性章:36)」そして預言者 の伝承もまた、審判の日にアッラーが傲慢さの見返りとして用意しているものに 関しての厳しい警告を明らかにし、非難している。ムハンマドはこう仰られた: 「その心の中にからし種程でも傲慢さのある者は、天国に入らない。」これ程ま でに傲慢さに警告を発する明白な理由のうちには、それが真実を拒み、その受け 入れを阻む原因となることが挙げられるだろう。人々が互いに誇り合えば真実は 失われ、敵意と侵害が生まれ、社会から平和が消えてしまうことになってしま う。傲慢な者たちは真実の受け入れを拒否し、その代わりになら嘘でも信じてし まい得るのである。ゆえに謙虚さというのは虚栄と違反を押しとどめる手段であ り、傲慢さはその逆である。そして信仰者は謙虚さによって心が結びつき、互い に真実を受け入れあうのだ。そこでは誰も虚妄に侵害されることなく、互いに害 し合うこともない。

8.許す心と悪業を善行で返すこと

人には3通りの他人との付き合い方がある:

1:公正を貫く。互いに余分も欠如もないそのままの自分の権利を得る。
2:ある者が本来の権利より余分なものを、他人の了承なしに得る。これはアッラーが禁じられた不正というものである。
3:互いが自主的に喜んで自分の権利を譲り合う。これが善行というものであり、1の項の公正と同様にアッラーが命じられたことである。

 預言者ムハンマドは許しの精神を勧め、それによってアッラーから受ける報奨 について言及した。彼はこう言ったと伝えられている:「施しによって金銭が減 ることはない。アッラーは許し深いしもべの威信を上げて下さる。アッラーゆえ に謙譲である者は、かれによってその地位を上げられないことがない。」しかし 怒るべきで見逃すべきではないところと、許すべきところの区別はしなければな らない。一般にはアッラーの神聖さが冒されたりするときには堪えて見逃したり してはいけず、不正を受けている人や不正の害が及んでいるところなどにおいて は許しの精神を用いるべきだと言われている。

 しかし残念なことに多くの人は、不正や被害を受けた人々に対し怒りに燃え、 彼らの権利を守ることから一歩も引こうとせず、かつ彼らを許すことは屈辱くら いに思っている。しかしアッラーとその預言者はそのようなことを言っていな い。自らの権利から身を引き、相手を許すことは―そのことで相手が不正や迫害 を続ける理由とならない限り―、アッラーの御許での威信と高い地位に値するの である。そして預言者ムハンマドは許しの精神において、イスラーム共同体の良 い模範であった。彼の妻の1人アーイシャは彼の人格を訊ねられてこう答えたと いう:「彼は下品で粗野でもなければ、街で騒々しくわめきたてもしませんでし た。彼は悪事に悪事でもって対することはなく、許しの精神を備えた方でし た。」この許しの精神は、社会に平安を呼ぶ最も有効な手段の1つである。とい うのもそれにより不正者は、不正を与えてきた者に許しと寛容の精神、そうする ことが可能にも関わらず悪行を善行で返すその潔癖な精神と美しい心を見出し、 自らの行いを後悔し、その眠りから目を覚ますのである。そして不正をしていた 者のところに赴き、後悔の念を示し、彼を友人とし、2人の間には以前の敵対関 係や嫌悪の念ではなく愛情が生まれる。これこそがアッラーがその啓典の中で強 調したことであり、悪行を善行で返すことは許しの精神の最高の段階である。悪 行を善行で返すことで、悪行を働いていた者の心は溶け、その善行によって学習 するのだ。そしてそれは悪を免じてくれたその高徳と模範でもって、彼を正しい 道に導く。このようにして社会には愛情と慈悲が満ち、平穏が訪れるのだ。しか しこのような高徳は稀な忍耐の精神を持ち合わせた人でなければ、得ることは出 来ない。残念なことながら、このような高徳をもった人は現代では尚更稀であ る。前にも述べたように、物質主義社会が―アッラーが慈悲をおかけになられた 者を除いては―人間をそこから追い立てるのだ。生きた例を提供できずに本当に 申し訳ないが、私はせめてあなた方と私たちのために祈ろう。私たちにこのよう な高徳が回帰し、そして私たちの社会が腐敗と破滅から救われますように。

 さて今回はこの辺で許しを請おう。それでは続きはまた次回に。


執筆:ラシャー マンスーリー
アブドルアジーズ国王大学元研究員

                

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