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今回は前回の続きですが、テーマの核心に迫っていきます。17項目あるうち
の6項目に触れますが、今回と次回でこのテーマを終えようと思います。それで
は第12番目から:
12.人の恥部を隠すこと
アッラーはかれへの服従とかれに服従する者を愛されるように、かれに逆らう
こととかれに逆らう者をお嫌いになられる。それゆえアッラーはそのしもべに服
従を命じ、反逆を禁じたのだ。かれへの服従はよき報奨とかれのご満悦の獲得に
つながり、かれへの反逆はかれのお怒りと懲罰に結びつく。そしてかれはかれへ
の服従を愛されるからこそ、社会においてそれが現象化し拡大し、人々がそれに
ついて語ることをお悦びになる。かれの反逆についてはその逆で、かれはそれが
社会化し、広がることをお望みにならない。このことからアッラーは罪を犯した
らそれを公にせず、また、その同志の罪を知ってしまったらそれを隠してやるこ
とを命じられたのだ。預言者ムハンマドはそのことを人々に勧めてこう言ってい
る:「ムスリムを匿う者は、アッラーが審判の日、彼を匿って下さるであろ
う。」しかしこのことは決して、彼ら同士の間で悪事を否定するということでは
ない。つまり犯してしまった悪事は密にするが、悪事自体は否定しなければなら
ない。こうしてムスリムは自らを、そしてその同志を悪事の公表から守る。それ
は社会に悪事が広まらないためであり、それらのニュースが広まることで社会の
個人間に好ましくない効果を及ぼすことを防ぐためである。
またムスリムがその同志を匿うことは、彼に悔悟と後悔の念を抱かせ、匿う者
と匿われる者との間に愛情を育むチャンスにもつながる。その逆のケースとして
もしそうしなければ、両者の間には敵意の炎が生じるであろう。そして悪事を犯
す者を更なる悪事へと駆り立てるかもしれない。なぜなら人々が蔑むような悪事
が公になることで、彼は羞恥心を失ってそのような行為を継続してしまう恐れが
あるからだ。しかしもし隠しておいてもらえたなら、彼はそれが公になることの
恥ずかしさから、そのような行為を放棄するかもしれない。
13.無知な者を教育し、思いやること
無知は恒久的病である。そして無知が悪事の発端となることは否定できない事
実だ。それゆえ社会は、各人同士が宗教的なことであれ生活上のことであれ知ら
ないことを学び合うために、互いに助け合わなければならない。それから初めて
議論を始め、個人の権利の侵害を守ることが出来るのだ。
それを必要としている者から知識を隠蔽する学者は、アッラーからの呪いに瀕
している。アッラーはこう仰っている:「われら(アッラーのこと)が啓典の中
で人々に明らかにした導きや明証を下した後で、それを隠蔽しようとする者たち
というのは、アッラーと呪う者たちから呪われる者たちである。ただし悔悟し善
行に勤め明らかにする者たちは別で、われは彼らを許したもう。実にわれは許
し、慈悲深いのである。」(クルアーン2:159-160)アッラーはここで
知識を隠す者に、地獄を約束しているのである。というのも知識の隠蔽というの
はつまり人々に対する真理の隠蔽であり、彼らを虚妄の中に放棄することを意味
するからだ。そしてこのことは相違や分裂の原因となり、人々が安全に暮らすこ
とを妨げることにもつながる。各個人に求められる個人的義務や社会の一部の者
たちが施行すればよいとされる社会連帯義務などのアッラーの教えを学び、理解
する社会というのは幸多き社会である。その最も重要な点が、アッラーの教えを
よく理解することで得られる、社会において個人の権利を侵害されることからの
安全性である。しかし個人が諸行動の規律を知らない無知蒙昧な社会というの
は、悪と試練に満ちた社会である。そしてその社会を害する悪の1つが、無知の
蔓延により起こる、個人の権利を守る安全性の喪失である。
そして知者が教えるべきことを教え、人々に説明することが義務であるよう
に、無知な者は学び、知るべきことを知者に訊ねなければならない。アッラーは
こう仰られた:「もし知らないのであれば、訓戒を知る者たちに訊ねよ。」(ク
ルアーン16:43)社会は知識と信仰により安定するのである。私たちは今日
サウジやその他の場所で起こっている様々なこと―つまり破壊活動や爆破、拉致
などによって人の命を奪う者たちのニュース―耳にするが、これらは無知の結果
以外の何ものでもない。私の意見では、真実のイスラームの教えと法に関する無
知が、彼ら若者たちをあのような行いに駆り立てている。彼らは彼らの行いを正
当化するためにイスラームやジハードといった言葉を引用しているが、真のイス
ラームを知る者が見れば、イスラームはそのような考えからは程遠いものである
ことが判明するだろう。イスラームはそれらの犯罪とはかけ離れた公正な教え
で、そのような極端な考えを支持することなどはありえない。
14.隣人への親切
アッラーは隣人への親切を命じてこう仰っている:「アッラーを崇拝し、かれ
に何ものをも並置してはならない。そして両親と近親の者たち、孤児、貧者、近
い隣人、そうでない隣人、道連れの者、旅人、あなた方の右手が所有する者たち
に親切を尽くすのだ。アッラーは自惚れ強く高慢な者を愛されない。」(クル
アーン4:36)
ある学者たちはこの「近い隣人」をムスリム、「そうでない隣人」をユダヤ教
徒・キリスト教徒その他の者たちと解釈している。そして隣人に対しての親切と
いうものは、懇切を尽くすこと、良い付き合い、アドバイス、問題の解決や援助
などの事柄を含んでいる。そして家から近い全ての家族は隣人と見なされる。そ
の距離的に近いほど親切を受ける権利があり、ある学者は親切をすべき隣人の目
安として、自宅周りの全方向に向けて40軒までが隣人であるとしている。そし
てこの親切とは先にも述べた通り、物質的・精神的なもの両方を指している。こ
の教えが望まれる形で実践されていたら、一体イスラーム社会の相互援助は、兄
弟愛は、平安はいかなるものになるであろう?
サウジの人々はこの教えを非常に尊んでいた。そして隣人たちの間には、兄弟
たちのそれよりも頻繁な愛情と親愛の付き合いがなされていたのを見たものだっ
た。しかし最近では―特に大都市で―事情が変わり、人々は大きく独立した建物
に住むようになり、その結果隣人同士であっても顔を合わせる機会すらなくなっ
てしまった。私はこの隣人関係の精神が完全に失われてしまう日のことを、非常
に憂えている。そのとき社会は、社会の個人間に兄弟愛を広める最も大きな要素
の1つを失ってしまうのだから。
15.喜捨
イスラームの偉大さは、この喜捨という点に良く現れている。イスラームの多
くの教えは、社会を構成する人々に兄弟愛の義務を果たし、健康に生きている間
に互いの権利を果たすことに関連しているが、その権利に対する関心は実に死後
にまで及んでいるのだ。ムスリムには緊密な関係を保たなければならない近親が
あり、親切を尽くすべき隣人があり、もてなすべき客人がある。しかしこの世を
去って主の元に向かう時、生前行っていたこれら近親との緊密な関係、親切、歓
待といった事柄は既に行うことが不可能になってしまう。そして故人からそれら
の善行を受けていた者たちは、もはやそれを失い、彼との別れを悔やみ、彼を偲
び慈しんで、彼のために祈るのだ。
しかしアッラーは信仰者の善行が続くこと、そしてその死後もその報奨が継続
することを望んでおられる。それゆえかれは、死後にも良い影響を残し続けるよ
き行いの報奨が、死後も継続することを認めた。そしてこのことは、2つの大き
な効果を生む:1つは死後も人々を益し続けること。そしてもう1つは、墓に
入ってその骨が朽ちてからも、その善行と報奨が継続することである。
サウジアラビアにはこの点に関する、生きた良い例がある。例えば通行人が水
を飲めるように、と道路に冷水機設置の奉仕し、子供たちにその管理を命じる
者。また礼拝者たちのためにモスクを建て、死後もその善行が残るように遺言す
る者。また無料で未亡人や貧者たちが住めるような住居を残し、子供たちにそれ
を勝手に売り払ったりしないよう忠言する者。このような例は枚挙に暇がない。
さて次回は、社会に兄弟愛を現実化させる残りの2項目を記そう。それでは
また。
執筆:ラシャー マンスーリー
アブドルアジーズ国王大学元研究員
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