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親愛なる読者の皆様:
1326年にオスマンが亡くなると、息子のオルハンが即位しました。彼は
「ブルサ」を開国し、続いて「アズミール」を、そして1330年には「タウ
シャンリー」を併合し、それから1354年には、彼の息子スライマンの指揮
で「アンカラ」を獲得しました。
オルハンの時代には、「イェニチェリ軍団(*「新しい軍隊」の意)」の最初
の部隊が結成されました。
1359年にオルハンは亡くなり、息子のムラード(ムラト)1世が即位しま
した。彼はヨーロッパを目指し、バルカン半島を解放しました。そしてオスマン
帝国は1366年にエディルネを獲得し、同市を首都に定めました。エディルネ
は、その後オスマン帝国がコンスタンティノープルを解放するまで首都であり続
けました。
ムラード1世は次々と勝利を収め、マケドニア、ソフィア、そしてギリシャ北
部のすべての地方を解放しました。ムラード1世が指揮するオスマン帝国軍と、
セルビア軍やボスニア軍、ハンガリー軍、ブルガリア軍、アルバニア軍から編成
されたキリスト教徒同盟軍との間で激しい戦闘が繰り広げられました。
この戦いでムラード1世は勝利したのですが、あるセルビア人が戦死者を装っ
て紛れ込み、ムラード1世を刺し殺したのです。そこで、1389年にムラード
1世の息子、バヤズィード(バヤズィト)1世が即位しました。彼は父のために
報復し、セルビア国王を捕らえて彼と彼の援護者たちを殺害しました。
1390年、東ローマ帝国は小アジアにおける彼らの最後の領土だった都市
「アーラ・シャハル」を失いました。
そして1394年、カイロにいた(アッバース朝)カリフ、アル=ムタワッキル
は、エジプトの(マムルーク朝)スルタン、バルクークの同意のもとに、バヤ
ズィードの要求に応えて彼に「ローマ王」の称号を与えました。バルクークがそ
のことに同意したのは、エジプトのマムルーク朝と小アジア・東欧のオスマン帝
国の双方に、モンゴル帝国の脅威が迫っていたからです。バルクークはモンゴル
帝国の脅威に対して、オスマン帝国と同盟関係を結びたかったのでした。
しかし、オスマン帝国に迫る脅威はモンゴル帝国だけではありませんでした。
そこには、十字軍の脅威も存在していたのです。
次回はオスマン帝国を脅かしたその二つの脅威についてお話しましょう。それ
ではまたお会いする日まで。
筆者:リハーブ・ザハラーン
(2008年1月22日更新)
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