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読者の皆様、今日はオスマン帝国が直面した2つの脅威についてお話しましょ
う。
1 十字軍の脅威
当時、大部分のヨーロッパ人たちは、オスマン帝国の度重なる解放遠征や、急
速なヨーロッパ進出に対して恐れを感じていました。そこで戦いを奨励するため
の宗教運動が起こり、ローマ教皇がキリスト教の名において人々に戦いを呼びか
けたのです。それで、当時のハンガリー王、ジギスムントの指揮により、ヨー
ロッパの大軍が出征し、フランスとドイツの部隊もその大軍に加わりました。
その時、ちょうどバヤズィード(バヤズィト1世)はアジアにいなかったた
め、戦いの初めにはヨーロッパ軍が勝利しました。それで彼らは多くの都市をオ
スマン帝国から奪還し、それから、ドナウ川沿いにある最も堅牢な都市、ニコポ
リスの城塞に侵入しました。
バヤズィードはその知らせを聞くと、ヨーロッパ軍と対決するために急いで戻
り、歴史に残る大勝利を収めました。ヨーロッパ軍の兵士は、ごく僅かしか生き
残らなかったと言います。それは1396年のことでした。
2 モンゴル帝国の脅威
モンゴル帝国の脅威も再び大きくなりました。ティムールが率いるモンゴル帝
国は、ホラサーンやマー・ワラーゥ・アン=ナハルを奪取したのです。ティムー
ルはサマルカンドを自らの首都に定め、かつてのチンギス・ハーンやフレグの領
土を取り戻すべく、モスクワから中国、そしてシリアへと向かいました。
バヤズィードは、いずれティムールとの間で決戦を交えなければならないと悟
り、軍の強化に努めました。そして、当時君候国の諸侯たちに属していた戦略的
地域を奪取しました。そのため、それらの諸候は逃亡し、ティムールの許へ亡命
して彼に助けを求めたのです。
こうして、モンゴル軍と、バヤズィードの長男エルトグル(エルトゥールル)
が率いる軍隊との間で、最初の決戦が行われました。しかしモンゴル軍が勝利を
収め、エルトグル・ビン・バヤズィードは戦死しました。
その後、ジュユーク・アバードにおいても戦いが繰り広げられましたが、また
してもモンゴル軍が勝利しました。モンゴル軍はその後アンカラに向かい、その
時、多くのモンゴル人たちがイスラームに入信したのでした。
バヤズィードは自ら軍を率いて懸命に戦ったのですが、敗北して息子のムー
サーと一緒にアンカラで捕えられ、その後、1403年に亡くなりました。
そこで、モンゴル帝国の支配下に入るという条件でティムールの同意を得て、
バヤズィードの息子、スライマンが即位しました。その後、1405年にティ
ムールは亡くなると、彼の息子たちの間で勢力争いが起こり、それによって小ア
ジアでの彼らの支配力は弱まっていきました。そこでオスマン帝国のスルタン、
アル=カーミルは、再びモンゴル帝国支配の排除に乗り出したのです。
しかしモンゴル帝国支配を退けた後で、バヤズィードの息子たちは王位をめ
ぐって争うようになりました。そして激しい争いが続いた末、モハンマド(メフ
メト)1世がスルタンに即位しました。モハンマド1世はモンゴル帝国との戦い
で失った領土の奪還に努めました。
1421年にモハンマド1世はエディルネで亡くなり、ムラード(ムラト)2
世が即位しました。彼は帝国に治安と改革の基礎を築き、解放遠征に向かい、
1430年にはサロニクを解放しました。
それからムラード2世は、ハンガリー摂政のフニャディ率いるキリスト教徒軍
と対決し、バルカン半島で勝利を収めました。そして1444年には、イズジダ
ン講和条約が結ばれ、オスマン軍はセルビアとハンガリーから撤退しました。
しかし十字軍兵士たちはその講和条約を破り、戦闘を仕掛けてきました。そこ
でムラード2世は再び彼らと対決し、1444年に彼らを倒しました。この戦い
で、ヨーロッパの王や諸侯の一部が戦死し、オスマン軍はボスニアとセルビアを
奪還しました。それにより、オスマン帝国は「力の時代」に到達したのです。
ムラード2世は1451年に亡くなり、息子のモハンマド(メフメト)2世が
即位しました。彼はのちにコンスタンティノープルを解放し、「征服王モハンマ
ド」と呼ばれるようになるのです。
皆さん、この偉大な人物「征服王モハンマド(メフメト2世)」について、ま
た、いかに彼がコンスタンティノープルを解放したかについてお話しする前に、
次回はまず、大都市コンスタンティノープルについてざっと目を通していきま
しょう。それでは、またお会いする日まで。
筆者:リハーブ・ザハラーン
(2008年2月5日更新)
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