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「征服王モハンマド(モハンマド2世/メフメト2世)」は、ヒジュラ暦835
年ラジャブ月27日(西暦1432年3月30日)に生まれ、オスマン帝国第7
代スルタン、ムラード(ムラト)2世の下で育ちました。
ムラード2世はモハンマド2世の教育を重視し、彼が将来のスルタンに相応し
く育ち、またその役割を十分に果たせる人物になるように教育しました。それに
より、モハンマド2世は聖クルアーンを暗誦し、聖預言者モハンマド(彼に平安
と祝福を)のハディース(聖伝)を学び、イスラーム法学を勉強しました。
またそれと同時に数学や天文学を学び、戦術や軍術を習得し、その上、アラビ
ア語やペルシャ語、ラテン語、ギリシャ語、といった多くの語学に精通しまし
た。そして戦いや遠征の多くに自ら加わり、ヒジュラ暦855年ムハッラム月5
日(西暦1451年2月7日)に父が亡くなると、スルタンに即位しました。そ
の時、彼は22歳でした。
モハンマド2世は正義と力を兼ね備えた優れた人格を持ち、また幼い頃から多
くの学問において頭角を現しました。中でも多くの語学に長け、また好んで歴史
書を学びました。そしてそれは、彼が国政や戦いの場でその個性を際立たせる上
での大きな助けとなりました。彼はやがてコンスタンティノープル解放を果た
し、「征服王モハンマド」と呼ばれるようになったのです。
また、モハンマド2世はさまざまな行政機構を再編し、整備しました。ここ
で、彼の国政における主要な業績を紹介しましょう。
1 学校教育の重視
モハンマド2世は学問と学者を愛し、国内のいたるところに学校や研究機関を
建てました。そして学校制度を整え、段階別編成を行い、各段階で学ぶべき学問
を定めました。その教育はすべての学校において無料で受けられました。
またモハンマド2世は教育改革を行い、教育内容の発展に努めました。彼は実
際によく学校を訪れ、教師たちの話を聞き、優秀な教師や学生には惜しみない報
奨を与えたのです。
2 学者の重用
モハンマド2世は学者たちと懇意にし、彼らに敬意を払い、その努力や研究を
奨励しました。そして彼らに十分な富と報奨を与え、学者たちに最大の敬意を
持って接しました。
そのような学者たちの中でも、アハマド・アル=カウラーニー師はスルタンの
許で高位を与えられた人物でした。アハマド師はスルタンのことを名前で呼び、
決してスルタンに対して身をかがめることも、手に接吻をすることもなく、ただ
握手をするに留まり、自分のところに使者が遣わされて呼び出される時以外に
は、決して自分からスルタンの許に赴くことはありませんでした。
3 詩人や文学者の重用
モハンマド2世は詩人でもありました。彼は文学全般を重視し、特に詩歌を重
んじました。彼は詩人たちと親交を持ち、彼らの中から一部の宰相を選びまし
た。また、彼の宮殿には30人の詩人が住み、彼らはみな月給を与えられていた
とも言います。
4 翻訳の重視
モハンマド2世は翻訳や著作を重んじました。図書館を普及させることで臣民
の間に知識を普及させるため、翻訳と著作の仕事を支援しました。また、彼は自
らの宮殿内にも特別図書館を設け、そこには多くの専門書や新書があり、1万2
千冊もの蔵書が収められていました。
モハンマド2世は、ギリシャ語やラテン語、アラビア語、ペルシャ語で書かれ
た多くの古書をトルコ語に翻訳するよう命じ、自らもアッ=ザハラーウィーの医
学書を翻訳しました。また、ローマ人学者ジョージ・アミルゾーズと彼の息子に
は、プトレマイオスの地理学書をアラビア語に翻訳し、同書に添付された地図
を、アラビア語とギリシャ語の両方の表記で作成しなおすよう依頼し、その作業
に対して2人に莫大な報酬を与えたのでした。
5 諸施設の建設と病院の重視
「征服王」は、多くのマスジドや研究所、宮殿、病院、公衆浴場、大市場、公
園を建設し、高官たちや富裕層の人々に対し、国に美しい景観を与える建造物の
建築を奨励しました。そして彼はのちにお話しする首都イスタンブールを特に重
んじ、同地を世界一美しい首都にしたいと望みました。
また彼は病院の建設を重視し、患者の安全を保障する制度を作り、薬の精密な
調合や管理を重んじました。それらの病院において治療費は全部無料であり、そ
れは民族や宗教の違いによる差別なく、すべての人々に同様でした。
6 商業と産業の重視
「征服王」は商業や工業を重視し、さまざまな手段を用いてその活性化のため
に尽力しました。オスマン帝国の人々は世界市場や、海路や陸路について、幅広
い情報を持っており、古い交路をより発展させました。そして商業活動がよりス
ムーズに行われるように多くの橋を建造しました。それで、ヨーロッパ諸国はオ
スマン帝国との交易を行うために、みな港を開いたのでした。
オスマン帝国では国内全域が豊かになり、帝国固有の質の高い金貨も有するよ
うになりました。多くの工場が建設され、弾薬工場や武器工場も建てられまし
た。また、軍事的に重要な地域には要塞や城塞が建造されました。
7 行政制度の重視
「征服王」は国家を整備し、発展させました。彼は地方行政を制度化するため
に、多くの法律を定めました。それらの法律はイスラーム法の延長線上にあるも
のでした。イスラーム法を基にした「カーヌーン・ナーメ」を制定するために、
彼は高名な学者たちからなる委員会を組織しました。
そしてモハンマド2世は、異なる宗教を持つ住民同士の関係を整える法律も制
定し、臣民の間に公正を広め、国内には安全と安寧が広がりました。
また彼は、太守たちのある者たちをそれぞれの地方に留任させる一方で、怠慢
が見えるようになった太守はみな退任させました。彼は高官や太守を選ぶにあた
り、その能力のみを基準にしたのです。
8 陸海軍の重視
「征服王」の時代は、兵士の優秀さとその数の多さによって強力な軍隊を有
し、軍隊が必要とする弾薬や武器、装備を十分調達するために多くの軍事工場が
建てられました。また国内の軍事拠点には要塞や城塞が建造されました。この時
代には、さまざまな分野の技術者や学者を輩出するために、軍事大学がより充実
したものとなり、そこから多くの専門家たちが軍に送り込まれました。
そしてモハンマド2世は、イタリア‐特にベニスやジェノヴァ‐のように戦艦
製造技術において高いレベルを持つ国々から学び、帝国の軍事に生かしました。
そのため、歴史家たちは彼をオスマン艦隊の生みの親だと認識しています。
9 公正の重視
「征服王」は国内全土に公正が行き渡るべく尽力し、とりわけ審判や人々の間
の裁きに携わる裁判官たちに注意を払いました。裁判官は清廉潔白で真直ぐな性
質を持っていなければならず、人々からの愛と尊敬に値する人物でなければなり
ませんし、もちろんイスラーム法やイスラーム法学に精通していなければなりま
せん。
当時オスマン帝国は、裁判官たちが必要とするものを十分に与え、彼らに豊か
な暮らしを提供したのですが、それは彼らへの誘惑や賄賂の道を絶つためでし
た。賄賂を受け取った裁判官への報いは死刑でした。
「征服王」は聖戦や解放遠征に多忙でありながらも、国内各所で起こる事件を
注意深く調査しました。夜になると彼はよく自ら町へ出て人々の様子を観察し、
彼らの訴えに耳を傾けました。そして彼は国内に公正が行き渡っているかどうか
を確認するため、キリスト教徒の聖職者たちに定期的に使者を送り、国内各地を
巡回して各地の裁判所でどのように事が運んでいるか精査するように彼らに命じ
ました。そして彼らに批判や記録を取る完全な自由を与え、それをスルタンに提
出させたのでした。
このようにして彼らの報告が裁判所の健正を支え、それによって、差別のない
真実なる、また厳正なる正義が整えられたのです。またモハンマド2世は、出征
するとその途中の地方でしばしば足を止めてテントを張り、そこで人々の間の問
題や不公正を自ら裁きました。
「征服王」は、国内で充実した改革の数々を実行すると、ヨーロッパにおける
解放遠征と同地でのイスラーム布教に目を向けました。中でも最も重要な解放遠
征はコンスタンティノープルの解放であり、かつてアッラーの使徒モハンマド
(彼に平安と祝福を)がもたらした吉報を実現することだったのです。
次回は、「征服王モハンマド」とコンスタンティノープル解放についてお話し
ましょう。それでは、またお会いする日まで。
筆者:リハーブ・ザハラーン
(2008年3月4日更新)
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