オスマン帝国の歴史
 

【コンスタンティノープル解放】

―素晴らしいアミール、そして素晴らしい軍隊―




親愛なる読者の皆様:

 ムスリムにとってコンスタンティノープル解放は貴い夢であり、希望でした。 それを叶えたのは誰だったのでしょうか? またそれはいつのことだったので しょうか?

 ムスリムは8世紀以上もの間、その夢の実現を待ちわび、ついに偉大なるスル タンの手によってそれは叶えられました。アッラーの使徒モハンマド(彼に平安 と祝福を)はコンスタンティノープル解放者のことを「素晴らしいアミール」、 そして解放軍のことを「素晴らしい軍隊」と表現しました。彼はかつて、将来の ムスリムによるコンスタンティノープル解放の吉報を伝え、このように語ってい たのです:

《あなた方はいずれコンスタンティノープルを解放するでしょう。そのアミール は何と素晴らしいアミールでしょうか。そしてその軍隊は何と素晴らしい軍隊で しょうか。》

 そのアミールこそ、「征服王モハンマド(モハンマド2世/メフメト2世)」 です。

 それでは、今日はその困難かつ壮大なる旅‐ムスリムたちが勝利によって聖預 言者の吉報を実現した、コンスタンティノープル解放遠征への旅‐にスポットを 当ててみましょう。

 その旅は、「ロメリ・ヒサール」、つまり「ローマ城塞」の建設で始まりまし た。それ以前も、コンスタンティノープルを包囲したバヤズィード(バヤズィ ト)1世が、ボスボラス海峡のアジア側海岸に「アナドール(アナトリア)城 塞」という城塞を建造しました。

 それは海幅の最狭地点の海岸に建造され、コンスタンティノープル城壁の方角 に向けて建てられたものでした。

 しかし「征服王モハンマド」は、海峡のヨーロッパ側海岸に、コンスタンティ ノープルの城壁に対峙する城塞を建造したのです。彼は兵士たちと一緒に自らも 城塞建造に参加しました。

 それに対し、東ローマ(ビザンツ)帝国のコンスタンティノス皇帝はあらゆる 手立てを講じて「征服王モハンマド」に城塞の建造を止めさせようとしました。 しかし彼が尚も建造を続行したので、東ローマ帝国はその城壁建造に従事する兵 士たちに対して攻撃を浴びせ始めたのです。そこで「征服王モハンマド」は東 ローマ帝国に対して正式に宣戦布告をしました。

 やがて、3ヶ月もしないうちに「ローマ城塞」は完成しました。それは重厚な 三角形の城壁を持つもので、そのすべての角には鉛でコーティングされた巨大な 塔がありました。またスルタンは、ボスボラス海峡を通るローマやヨーロッパの 船を阻止するために、海岸に向けて巨大な石砲や大砲を設置するよう命じまし た。

 東ローマ帝国の皇帝はコンスタンティノープルの都市の城門をすべて閉鎖し、 破壊された城壁の改修や、防衛手段の準備を試みました。また皇帝は、オスマン 艦船が入リ込むのを阻止するために、金角湾の入り口に太い鉄の鎖を張り巡らす よう命じました。この鎖は都市の北端からガラタ地区まで張られました。そして コンスタンティノープルにいたオスマン帝国の人々はみな拘束されました。

 「征服王モハンマド」は、以前からコンスタンティノープル解放の目的を遂げ るためにさまざまな策を準備していました。

 彼は「オルバン」という名のハンガリー人技術者に、巨大な大砲の製造を依頼 し、オルバンが仕事を終えるまでに必要なものをすべて準備しました。その大砲 の重さは何百トンにも及び、一つが1万2千ラトル<*12オンス(およそ 340グラム)>近くもある大変重い砲弾を発射するものでした。

 大砲を動かすには100頭近くの牛と100人もの男の力が必要で、エディル ネからコンスタンティノープルの城壁に対峙したその場所まで運ぶのに、2ヶ月 もの時間を要したのです。その大砲は、「スルタンの大砲」と呼ばれました。

 スルタンはコンスタンティノープル包囲のために出陣しました。そして軍隊を 率いて同地に到着するとまず2ラカート(*ラカートは礼拝動作の単位)の礼拝 を捧げ、兵士たちもみな同様の礼拝を捧げてから、包囲が始まりました。

 それからスルタンが軍を配置すると、オスマン艦隊も到着しました。オスマン 艦隊は350隻の戦艦と26万5千の兵士を擁するものでした。そして実際に包 囲が始まったのは、ヒジュラ暦805年ラマダーン月13日の金曜日(西暦 1453年4月6日)のことでした。

 スルタンは東ローマ帝国の皇帝に対してコンスタンティノープルを明け渡すよ う要求し、住民への敬意と安全保障を約束し、彼らの生命、信仰、財産の保護を 保障することを約束しました。しかし皇帝は、コンスタンティノープル城塞の堅 牢さキリスト教諸国の援助に信を置き、その要求を拒んだのです。

 コンスタンティノープルは堅守の位置を占めていました。東はボスポラス海峡 を境にし、西はヨーロッパ大陸に通じ、マルマラ海岸から金角湾岸まで延びる2 つの城壁が同地を守っていました。

 その2つのうち、内側の城壁の高さは40フィート(*1フィートは 30.48センチメートル)近くあり、塔の高さは60フィート、塔と塔の間隔 は180フィート近くありました。また、外側の城壁の高さはおよそ25フィー トあり、内側の城壁同様の塔がありました。

 「オスマンの大砲」が都市の城壁を目指して砲弾を発射する一方で、オスマン 艦隊は金角湾入り口に張られた鉄の鎖を壊そうとしました。しかし、東ローマ帝 国の戦艦が応戦してオスマン艦隊を攻撃したため、彼らは引き返さざるを得ませ んでした。

 そこでスルタンはしばし考え、やがて金角湾に入る方法を思いつきました。彼 はラマダーン月のある夜、一晩かけて陸路で艦隊の戦艦一部を輸送したのです。 船を陸路で輸送するために道がならされ、それから船をスムーズに引くために、 木板の上に油脂が塗られました。こうして70隻の船が一晩のうちに輸送された のです。

 陸上での砲撃が断続的に行われていたので、東ローマ帝国軍は応戦に追われ、 オスマン帝国軍が船を輸送したことに目を向けられなかったのでした。

 やがて夜が明けると、オスマン帝国の艦隊は要塞のあちこちに運びこまれてい ました。スルタンは、大砲を並べて設置するため、砲台となるような大橋を建設 するように命じました。包囲はゆっくりと続けられましたが、「征服王」は常に 新しい策で敵を驚かせたのです。

 もはやスルタンの眼中には攻撃しかありませんでした。こうして攻撃が行わ れ、戦いが繰り広げられました。そして砲撃の大音声が轟きわたり、兵士たちの タクビール(*アッラーフ・アクバル‐神は至大なり、と唱えること)があたり を揺るがしました。

 東ローマ帝国軍はオスマン帝国軍の攻撃に抵抗するために持てる限りの力で戦 いましたが、オスマン帝国軍の努力はそれを何倍も上回っていました。やがて、 オスマン艦隊は金角湾入り口に張り巡らされた鉄の鎖を持ち上げることに成功 し、それからコンスタンティノープルを解放するまでに要した時間は、わずか3 時間でした。こうして同地は解放者たちのものになったのです。

 解放者となったスルタンは、勝利を収めてコンスタンティノープルの町に入る と馬から降り、この偉大なる勝利を感謝してアッラーにサジダ(叩頭)を捧げま した。それから、東ローマ帝国の人々や修道僧たちが避難していた「アヤソフィ ア聖堂」に向かい、彼らの生命と信仰と財産の保護を保障したのでした。

 モハンマド2世はコンスタンティノープルの住人に対して寛容な政策を採りま した。彼は同地の住人に信仰の自由を保障し、包囲されていた間、市街を離れて いた者たちが戻り、自分の家に帰ることを許しました。そしてここに、有名なフ ランス人哲学者ヴォルテルが、勝利したムスリムが敗戦した非ムスリムに対して 取った立場について記したこのような文章があります:

<トルコ人たちは、私たちが思っていたようにキリスト教徒に対して非道な取り 扱いをしたりはしませんでした。キリスト教圏の社会の中には、国内のムスリム がモスクを持つことさえ許さない国があるのとは異なり、トルコ人は敗戦したギ リシャ人たちに教会を持つことを許したということに、注目しなければなりませ ん。

 「征服王モハンマド」が賢明で、英知のある人物であったことは、敗戦者と なったキリスト教徒たちに、主教選出の自由を認めたことにも現れています。キ リスト教徒たちが主教を選出すると、スルタンはその人物を任命し、権杖を手渡 し、指輪を身に付けさせるのです。当時の主教はこのように語りました。

「私は自分が受けた敬意について羞恥を感じます。キリスト教徒の王たちは、か つての主教たちに対して、このような接し方をしたことはなかったのです。」>

 オスマン帝国の人々のこのような態度と、非ムスリムのウンマ(共同体)がム スリムに対して勝利を収めた時のムスリムに対する態度との違いについては、こ こで言及しておく価値があると思います。戦勝した十字軍の破壊的行為(アラブ マガジン「十字軍の戦い」参照)や、アンダルシアでの勝利における彼らのムス リムに対する行為(同じくアラブマガジン「アンダルシア」参照)のように。し かしこれらはほんの一例にすぎず、その他にもそのようなケースは数え切れない ほどあるのです。

 その後、「征服王モハンマド」はアヤソフィア聖堂をモスクに改築するよう命 じ、また、第4回で既にお話した、偉大なる教友「アブー・アィユーブ・アル= アンサーリー」の墓のそばにモスクを建築するよう命じました。

 こうしてコンスタンティノープルの解放者モハンマド2世は、アッラーの使徒 モハンマド(彼に祝福と平安を)がかつて伝えた吉報(*コンスタンティノープ ル解放の吉報)を実現し、同地を帝国の首都に定め、「イスラーム・ブール(イ スラームの地)」と名づけました。そしてそれは後に、「イスタンブール」とい う名で知られるようになるのです。

 「征服王モハンマド」(素晴らしいアミール)はその後もヨーロッパ解放遠征 の旅を続け、セルビアやモーラ(ペロポネソス)半島、アルバニアから、ヴェネ ツィア共和国国境までの国々を解放し、1481年に亡くなりました。

 次回は、オスマン帝国の東洋での解放遠征についてお話しましょう。それでは またお会いする日まで。


筆者:リハーブ・ザハラーン

(2008年3月18日更新)

                

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