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親愛なる読者の皆様:
「征服王モハンマド(モハンマド2世/メフメト2世)」は遺言で一番下の息
子を王位継承者に指名しました。しかし没後、長男バヤズィード(バヤズィト)
2世が彼を征して王位を奪いました。そしてバヤズィード2世はその治世の最後
に、息子のアハマドを王位継承者に指名しましたが、それに対して一番下の息子
サリーム(セリム)が反乱を起こし、王位を奪いました。
サリーム1世は、ペルシャで強い勢力を持つサファヴィー朝を征伐しようと思
いました。サファヴィー朝はかつて兄を援助していたからです。それで両者は
1514年に「ジャルディラン(チャルディラン)の戦い」で対決し、サリーム
1世が勝利を収め、サファヴィー朝の首都タブリーズを解放しました。
また、スルタン、アル=ガウリーの治世のマムルーク朝が、サファヴィー朝と
オスマン帝国との争いに際して、サファヴィー朝と協力・同盟関係にあったこと
を考え、サリーム1世はシリアとエジプトを解放しようと思いました。当時、そ
の両国にはマムルーク朝支配が及んでおり、さらにマムルーク朝はヒジャーズ地
方の聖地をも支配していたのです。そこでサリーム1世は、まずシリアとエジプ
トの解放を目指したのでした。
当時、エジプトとシリアのマムルーク朝は経済崩壊に見舞われていました。そ
れは、ポルトガル人たちが喜望峰海路を発見したからでした。それらの発見は、
1460年にシエラレオネ(*ギニアの南)に到達した航海王ヘンリーによって
始まり、それに次ぐ1488年には、バルトロメウ・ディオスが喜望峰を周航、
さらにその10年後にはヴァスコダガマがアフリカ東海岸からインド洋沿岸まで
の航海に成功しました。それにより、ポルトガルはアラビアの各港を経由しなく
ても、インドに行きつけるようになったのです。
それらの海路の発見によって、アラビアの各港を経由する交易が決定的に駄目
になった訳ではありませんが、しかしそれは衰退していきました。そしてそのよ
うな商業の衰退や経済崩壊により、オスマン帝国はシリア・エジプトにおけるマ
ムルーク朝を容易に征圧することができたのでした。
1516年、アレッポ北部のマルジュ・ダービクにおいてマムルーク朝とオス
マン帝国は対決しました。そしてオスマン帝国が勝利を収め、マムルーク朝スル
タン、カンサウフ・アル=ガウリーは戦死しました。それにより、オスマン帝国
はシリアを併合しました。
その後、オスマン帝国はエジプトに進入し、1517年にはカイロ近郊で「リ
ダニヤの戦い」が繰り広げられました。そしてオスマン帝国が勝利を収め、マム
ルーク朝スルタン、トゥーマーン・バイは殺害されました。
オスマン帝国はイスラームの名においてこれらの解放遠征を行い、それは遠征
の道を容易なものにしました。そしてその後、聖なる地もオスマン帝国への従属
を受け入れたのです。
サリーム1世は1520年に亡くなり、「立法者スレイマン」として知られる
息子のスレイマンがスルタンに即位しました。
次回は、「立法者スレイマン」の主要な業績についてお話しましょう。それで
は、またお会いする日まで。
筆者:リハーブ・ザハラーン
(2008年4月1日更新)
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