オスマン帝国の歴史
 

【立法者スレイマンと、ヨーロッパ、アジア、アフリカにおける開放遠征】



 オスマン帝国は、「立法者スレイマン」‐また、ヨーロッパ人たちは彼を「ス レイマン大帝」と称しました‐の時代に最大の勢力と領土を持つに至りました。 アハマド・シャラビー博士が「イスラーム史とイスラーム文明」の中で述べてい るように、彼はヨーロッパとアジアとアフリカにおいて多くの国々を解放しまし た。

 ヨーロッパでは、1521年にベオグラードを、1522年にはロードス島を 解放しました。そして1526年に彼とハンガリー王との間で「モハーチの戦 い」が起こり、スレイマン大帝は大勝しました。その戦いで若きハンガリー王ル ウィーズは戦死し、スレイマン大帝は、ハンガリー王位を巡ってオーストリア王 と争っていたトランシルヴェニア公を支持し、ブダペストを奪取しました。そし て、1529年にはオーストリアの首都ウィーンを包囲しましたが、入城までに は至りませんでした。

 アジアでは、スレイマン大帝はペルシャと戦いました。サファヴィー朝のイラ ク太守‐彼はスンニ派でした‐が、シーア派から自分と仲間の身を守ろうとして スレイマン大帝に通じたため、サファヴィー朝のシャー(王)は彼に対して軍隊 を送り込みました。そこでスレイマン大帝は同盟者であるそのイラク太守を守る べく応戦し、ペルシャに勝利を収めました。こうしてイラクは、1534年に 「立法者スレイマン」の手で解放されたのでした。

 そして北アフリカについてですが、ムスリムがイスパニア(スペイン/アンダ ルシア)で敗北を帰して以来、北アフリカ諸国はイスパニアの進出の動きによる 混乱に悩まされていました。そこでオスマン帝国はその機会を利用し、北アフリ カ諸国の諸事に介入し、1518年にはハイルッディーン・バルバロッサによっ てアルジェリアが解放されました。

 続いて1534年にはハイルッディーン・アリーによってチュニスが解放さ れ、1551年にはスィナン・バシャ(パシャ)によってタラーブルス(トリポ リ)が解放されて、同地からマルタ騎士団が追放されました。こうして北アフリ カ諸国は、モロッコを除いてみなオスマン帝国の支配下に入ったのでした。

 また残りのアラブ諸国については、ピーリー・レイスの指揮により、アラビア 半島の東部と南部への海軍遠征が行われました。そして1538年にはアデン が、1547年にはサヌアーゥ(サナア)が、1551年にはマスカットが占領 され、海軍による進軍はアラビア半島の先端部にまで及びました。そしてエジプ トからも部隊が派遣され、1568年にはヤマン(イエメン)全土の占領が完了 しました。

 こうして、オスマン帝国は領土を極限まで広げました。それは、ドナウ川沿岸 のブダペストからナイルの滝近くのアスワンまで、そしてユーフラテス川とイラ ン内陸地からアラビア半島南部のバーブ・アル=マンデブまで達する広大なもの でした。

 しかし16世紀後半にはオスマン帝国の躍進は止まってしまいます。それには 多くの要因があったのですが、スレイマン大帝の息子たちの間で起きた勢力争い もその一つでした。

 それらの要因により、オスマン帝国は次第に外国勢力のターゲットになってい き、攻撃から防御へとその身を転じるようになったのです。そしてやがてオスマ ン帝国は敵の進撃を受けて後退するようになり、国家崩壊へと向かっていったの でした。それはいわゆる「衰退の時代」に起きたことです。

 それでは、また次回にお会いしましょう、インシャーアッラー。


筆者:リハーブ・ザハラーン

(2008年4月15日更新)

                

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