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親愛なる読者の皆様:
オスマン文明は、当然のことながらいわゆる「力の時代」に培われたものであ
り、そのルーツは多様です。なぜならオスマン文化はさまざまなルーツが融合し
てできたものだからです。たとえば、トルコ民族はペルシャから王への賛美や、
王権の強大化といった政治思想を多く取り入れましたが、それは、トルコ民族が
西アジアに移住する前後、ペルシャ人と強い関係を持っていたからでした。
また彼らはビザンツ(東ローマ帝国)の民から軍事施設や行政制度の一部を取
り入れました。
それ以前にはアラブ民族から、経済・社会原理や聖法を含む学問やイスラーム
を取り入れました。また彼らはアラビア文字やアラビア書道を取り入れ、それは
1928年まで使用されていました。かつて彼らがアラビア語を学んだことか
ら、今でもトルコ語の中にはアラビア語由来の用語が多く存在しているのです。
彼らはイスラームから、またアラブ民族から多くのことを学んだのでした。
統治については、スルタンが絶対的権力を持ち、スルタンには、「スルタンの
中のスルタン」とか、「王の中の王」といったさまざまな尊称が与えられまし
た。スルタンを支える「大宰相」という地位は、今で言えば「首相」にあたるも
のでした。大宰相の地位は、スルタンの求めに応えてより多くのものを献上する
者だけに与えられました。
また、「バシャ(パシャ/太守)」という地位があり、彼らは各州の統治者で
した。そしてオスマン帝国では、トルコ人以外の住人もさまざまな役職に任命さ
れました。国家にはイクターウ(イクター)制度が布かれており、それは高位に
ある者や富裕層の人々に土地を与え、彼らの許で農夫たちを最低限の条件で働か
せるものでした。
軍隊はさまざまな人種からなり、「イェニチェリ」制度が始められました。少
年たちを幼い頃から徴兵し、イスラーム教育と軍事教育を授けたのです。彼らは
みな身内との絆を絶ってスルタンとの絆を結び、スルタンは彼らのすべてになっ
たのでした。
オスマン帝国の建造物遺産では、ソフィヤ教会が改修されて造られたモスク
が、当時最も重要なモスクとみなされました。また「征服王モハンマド(モハン
マド2世/メフメト2世)」は、「モハンマディーモスク」、あるいは「ジャー
ミウ・スルタン・アル=ファーティフ(征服王)・モハンマド」と呼ばれるモス
クや、その他、多くのモスクを国内各地に建てました。
また彼が建てた「アブー・アィユーブ・アル=アンサーリー・モスク」は、ス
ルタンの威光が示される場所でした。ハリーファはみなそのモスクに赴き、そこ
で剣を肩に置き、自らの即位を宣言したのです。このモスクのそばには、スルタ
ンや高位の人々の埋葬場所がありました。
「バヤズィード(バヤズィト)モスク」もオスマン朝文化の重要な遺産の一つ
であり、その大きさとペルシャ風の装飾美が特徴的ですし、「スレイマン・ア
ル=カーヌーニー(立法者スレイマン)・モスク」はミナレットの高さと巨大さ、
そして壮麗さで知られています。
オスマン帝国のスルタンの多くが、学校や病院、貧者のための食堂、ハンマー
ム(公衆浴場)、宿泊施設、避難所、井戸などを造りました。オスマン帝国の多
くの建造物遺産の多くはイスラームと係わりがあり、その大部分がモスクや学校
や礼拝施設なのです。
次回はオスマン帝国の主要な長所と欠点についてお話しましょう。それではま
たお会いする日まで。
筆者:リハーブ・ザハラーン
(2008年5月13日更新)
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