心の走馬灯
 

【イスラーム信仰の内実 その1】
 

イスラーム信仰をめぐっては、私はいつも主として三つの設問と付き合ってきたように思います。順不同ですが、その1は信仰と知識の問題。2は神という絶対者との直接的な対峙の必須なこと、3は信心の内実です。

ここでは紙数に限りがありますので、思い切って根本を突くということで、3の設問について4回連続で書くことにします。そして残る二つの設問については、またの機会に譲れればと思います。

1、課題の設定

しばしばイスラーム信仰の基本的な教義は、「六信五行」にまとめられるとされます。「六信」とは、神、天使、経典、預言者、来世そして予定の6点を信ずること、「五行」とは信仰告白、礼拝、喜捨、断食そして巡礼の5点を励行することです。ところが素人目には、脈絡抜きでこれだけ抽出されると、信徒は単なる迷信を信じているのとどこが違うのか、あまりに唐突で訝しく思えてきます。

他方でイスラームの体系は神学、哲学、法学や倫理学などで構成されるとも言われます。それではイスラームの中核は学問体系であるということになるのでしょうか。イスラーム自体は宗教であり、その中核は学問ではなく、当然信仰そのものであるという原点を再確認すべきでしょう。

それではイスラーム信仰の何が人を惹きつけ、その信仰から生み出される力の特質は何なのでしょうか。そしてそれらの内実は、人が生きるということと本源的にどう関わっているのか。これらの疑問に出来るだけ違和感のないかたちで、私なりのまとめ方に触れさせていただきたいと思います。

2、信心の過程

信心という、ある種無定形で捉えようのない実態を紐解くため、まず初めに信心を入信の様から観察し、信仰を確認する次の段階に移り、最後に信仰の頂点を極める段階へと、いわば時系列に配して捉えてみましょう(それらを仮に、入信、確信、極信と名づけます)。

入信のあり方として、イスラームでは幼年時の教育及び生活全体に導かれるケースが、圧倒的に多いようです。これはあたかもメンデルスゾーンやモーツアルトが楽団の音楽で目を覚まし、ピカソが画家であった父親の絵筆で遊んでいるうちに才能に火がついたようなものです。幼年時のコーラン教育は、単に暗誦だけではなく、信仰生活の雛形を見聞きする場でもあります。 

以上のようにイスラームの入信過程は、自然であるか、あるいは極端な精神的葛藤を伴わないケースが多いせいか、仏教やキリストと比べて、語り継がれる入信物語が多くないように見受けられます。次いで確信の様はどうようなものか。これは信徒各自により千差万別であり、また同じ人物が様々に変る万華鏡のような心の移ろいを経験するのでしょうから、文字通り無定形です。例えばキリスト教だと、イグナチオ・デ・ロヨラの『霊操』(岩波文庫)のように、信心を固める教本があり、仏教でも慧開の『無門関』における四十八の公案(岩波文庫や『禅問答四十八章』、学生社)は、同種の課程を示すものです。イスラームでも中世のイブン・タイミーヤの『信徒の霊操』などの著作がありますが、日本語では十分紹介されていません。

前世紀エジプトの碩学、アフマド・アミーンの『自伝』(第三書館)には、彼が幼い頃から神が奇跡を行って見せてくれた夢を見たことや、神の光で部屋が満たされた様を描写するところがあります。確信の一つの中心は、神の存在とその無限の力、能力を垣間見ることでしょう。その昔、スペインのアルハンブラ宮殿の天井から射す繊細な光の束を、床に横になって見上げながら信徒は神を思ったといいます。アッラーの神は、万物を包み込む光であると言う比喩は、目に見えて最も分かりやすいものかも知れません。


執筆:アミーン水谷
アラブ イスラーム学院研究員


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