心の走馬灯
 

【イスラーム信仰の内実 その3】
 

次の用語は、精神あるいは魂(ルーフ)と心(カルブ)というものです。この両者の関係についても、種々の捉え方があります。但し一般的には、心は広く人の様々な感情や知性の働きも包み込むもので、魂よりは広範なものとして理解され、魂は信仰に直結している作用を受け持つものであると了解されます。イスラーム文明を擁護し、欧米文明を批判する時の拠り所としては、物質主義に対する精神主義がイスラームには存続していることが強調されることもあります。ところが魂は人間愛の源泉でもあるとされたりするので、そうなると心の感情的な働きと重なってくる面もあるということになります。

ここにまた定義不鮮明な面が残りますが、いずれにしても魂と心が人には宿っているとされ、心をベースに魂の働きが信仰に誘うと考えられるわけです。では魂と前述の霊感とは、どのような関係にあるのか? このような議論にはお目にかかったこともありませんが、強いて解釈すれば、魂はより静態的で、霊感はより動態的であると捉えられるのかもしれません。

なお以上の要素の中には、知性あるいは理性(アクル)や頭脳(モッホ)は出てきませんでした。他方、感情(アーティファ)や感性(シュウール)は霊感の働きを助長するものとして、議論に顔を出すこともあります。その出方や頻度はまた人それぞれですが、神と信徒間の関係の基軸を感情的に捉える表現としては、まずは双方向の愛(ホッブ)、そして信徒の神に対する畏怖(ハウフ)が上げられるのが普通です。

以上で信仰の極致であるとされる一元論が、以前よりはっきりしたでしょうか。より良くありたい、正しくありたいなど、人が自然に求める真善美凡てを包み込み、更にそれより高い次元の世界。凡てが包摂されており絶対にして不動のこの宗教的宇宙は、人の霊感で直観するものであり、それを指し示すのに神の方からの啓示があるかもしれない。この宗教的本能は強弱の差はあるとしても、誰しもが持っている。直観の後に来るものは、この宗教的宇宙の一部である自分と主たる神との愛を中心とした甘美な関係であり、同じく自分が一部である人類全体への愛にもつながります。但し神への畏怖も同時にあり、最後の審判で凡てが裁かれるわけです。これらすべてが素直に受け入れられるとき、それは忘我の境地と言うべきなのでしょう(イスラーム哲学が発達して、一元界を更に中間的なものと最終的なものに仕分けるような思唯が行われたことは、井筒俊彦著『イスラーム哲学の原像』、岩波新書などを参照)。

4、信心の力

信仰の内実に付いて、縦と横の方向からその深みと広さを探ってみました。次に信心の齎す力について考えます。生活全体のあり方からイスラーム信仰に導かれるとしても、人が長年生きていく上で、随時自らを振り返り、はたとその信心を見つめなおす機会は少なくないと想像されます。つまり信徒も慣れ親しんだ生活に流されるのではなく、今一度、何故という疑問を自らに発してもおかしくないはずです。

内省を重ねて行くと、人の子として民族、言語の違いを超えて、人間生存の本源的な断面が露呈される、つまり人の生は、結局のところ自分一人でもよいから生き続けたいという、生存本能に帰着するほかないでしょう。この迷いと反省の崖っぷちに立たされた瞬間に、イスラームは自分一人のあり方を越えて、再度神の下での人類愛や人間存在全体の見地に立ち戻る力を与えてくれます。真善美を求める人の自然な気持ちにも、それらを総括する神との触れ合いにより一層の拍車がかかり、絶対的な信条に従い生きていることへの充足感も齎す、つまりそこに生きる意味が与えられると言えましょう。


執筆:アミーン水谷
アラブ イスラーム学院研究員


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