心の走馬灯
 

【イスラーム信仰の内実 その4】
 

前回は信徒の心境について述べましたが、要は誰しも幼年教育の奴隷ではないはずだということです。日々生きる人間の心の糧として、生存の深みから勇気と信念を与えてくれないとすれば、イスラームが何世紀にもわたって不動の信条として掲げられてくることは、あり得ないと考えます。

「信ずるものは救われる」とは、耳になじみ深い言葉ですが、これはキリスト教的な表現と発想ではあっても、事実だということでしょう。そして同種のパワーが、イスラームにおける怒涛のような力を生み出し続けていると思うのです。こう思うとき、次のテーマに行き着きます。

最後に、イスラーム信仰の内実とそれが齎す力を凝視する時、そこに一つの驚きがあるとすれば、それは仏教やキリスト教とどれほど違うのかということではないでしょうか。「水の色はその容器の色である」とし、「我々は全員、同じ生命の樹木の枝に過ぎない」(John Hick, The Fifth Dimension-An Exploration of the Spiritual Realm, Oxford, 1999)として、「偉大な宗教的伝統はそれぞれに代替的な救いの場である」と見なす、宗教多元主義が出てくる根拠がここにあると思われます。この見解を敷衍してみます。

仏教ではしきりに、不ニということを言います。また絶対無、あるいは虚無(こむ)とは、有無の無ではなくて、そもそも最初から何もない無であるとされます。これは一元の姿を指しているとも解されるのです。そして限りなく広がるその宇宙大の世界を悟る時から、それが仏として感得され、従って生きとし生けるものすべからく仏である以上、殺生を戒め施餓鬼に努める気持ちが湧いてきます。それはイスラームにも見られる禁欲、犠牲、献身の姿勢にも酷似しています。禅の悟りは、個我から全我への開眼であるとすれば、それは我一人の立場を克服、超越させるイスラームが与える信心の力として、前述したところと異口同音です。

またキリスト教では、神の愛を掲げます。キリストは人類の凡ての苦しみや悩みを一人背負った象徴であり、残された我々は凡てを愛に捧げることにより、それに報いることが出来るとされます。その愛とは唯一たる神に対するものであると同時に、人類そして生きとし生けるもの凡てに向けられる。また信者にとって最善の伴侶であり模範であるのはキリスト自身であるから、キリストに倣えということになるのです。

絶対者、真実、究極、永劫、無限、超越、そのほか神のためにどのような言葉を持ち出すのも自由として、構造的な仕組みはほぼ同一であると言えそうです。イスラームではアッラーは修飾不可能であるから、尊称として九十九のありがたい名称があります。即ち、美しい、永遠である、万能である、などなど。仏は奈良、鎌倉の大仏や、大船の観音様のように巨大に表されると共に、持仏のように小さいものまで様々に表されます。
   
このように宗教多元主義は信心の内実について、一つの広い視野を与えてくれるのではないかと思案しています。以上、縦と横の方向から信心を見つめようとし、その活力の源にも一瞥を与えましたが、イスラームだけに限らず宗教信仰は人が生きて行くということと一体の精神的な営みであることも垣間見れたかと考えます。

ところがこのように多くの言葉を使わなければ、信仰の内実を得られないかというと、それは決してそうではないと信じます。それが直観であり、信じるという人の心が持つ力なのでしょう。信心は言葉を超えて、あるのです。物事を考える際に、言葉を使う以上仕方ないのですが、上のようにいろいろの言葉を使えば使うほど、むしろ次の大きな疑問が湧いてきます。それが最初に挙げました「信仰と知識」という問題です。これについては、またの機会に譲ることになります。

読んで頂いてありがとうございました。
神に称えあれかし、人に慈悲と懲罰あれかし。


執筆:アミーン水谷
アラブ イスラーム学院研究員


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