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穏健派ムスリムの知的闘争―アフマド・アミーン
アミーン 水谷 周 著
『穏健派ムスリムの知的闘争―アフマド・アミーン(1886−1954 )』
“An Intellectual Struggle of a Moderate Muslim: Ahmad Amin (1886-1954)”
(注)


日本語要旨

1.人生と思想

 エジプトの著名な歴史家であり思想家であるアフマド・アミーン(1886年 −1954年)は、多方面に渉る思索、著作、啓蒙活動により、アラブ・ムスリ ムの新しいイメージ・自己認識を定着させた。

 従来、イスラームは全く周囲の影響など受けない完全無欠な教えであるとの見 方が支配してきたのを、彼が歴史事実的にそれは多くの宗教の影響を蒙ったもの として提示したのは、一つの革命であったともいえる。

 他方彼の育ちや受けた教育は極めて伝統的なもので、思想内容も新奇をてらっ たものではなかった。伝統に根ざしながらもその革新を図ろうとする穏健派の立 場は、多分に広い支持を得ながらも政治的な具体的行動には結びつかなかった。 そこには躊躇であり苦悩の軌跡が描かれている。


2.研究の意義

 イスラーム史、文学・言語学、人生論、文明論、政治・社会論など多岐に渉る 議論の全体を正確に把握すること自体、アラブ・イスラーム文化の全容を知るこ とにもなる。更にどの分野をとってもアミーンが血の出るような改革論議を展開 する様は、日本の近代化の努力に似た面が少なくないが、いかにも引きずる伝統 の重さが違うことに気づかせられるのである。

 また昨今は時流として過激派にのみ注目が集まりがちであるが、実は圧倒的多 数は躊躇しながら苦悩する穏健派であることを再認識したい。但しそれは多くの 社会に見られるごとく、「沈黙する多数派」に終始する傾向があることは悔やま れる。今日穏健派育成・支持は米国の政策レベルでも重要性が指摘されている が、具体策に十分結実していないという問題も惹起していると言えよう。


3.著作要旨

序文

 英国支配と独立、その後の変容と混乱、パレスチナ戦争敗北からナセル革命 (1952年)までの半世紀間を生き、膨大な著作をものしたエジプトの碩学ア フマド・アミーンの思想の全幅を詳細に検討し、その史的意義を明らかにするこ とが本研究の課題である。

 欧米での批判は得てして先入観がある反面、アラブ世界では手放しの評価がま かり通る状況の中、言葉の意味論的研究の手法を念頭に置きつつ、着実な評価を 積み上げることを目標とした。

 伝統的なイスラーム諸学を基本としつつも近代実証史学を身に付けて、いわば アラブ・イスラーム文化の中から新たな着想と展望を示し得たアミーンの主要著 作は、一連のイスラーム史叙述である。

 その先陣を切った『イスラームの暁』(1927年)では、イスラームは他の 宗教や文化に影響されずに独力で生まれ成長したとする伝統的な見方を否定し、 欧米イスラーム学の成果を十分取り入れた内容で、簡潔にして達意の文章と実証 的論法の新味と共に大きな波紋を呼んだ。

 また彼は論文により、イスラーム以前のアラブ文化の華とされてきたジャーヒ リーヤ詩はむしろその後のアラブ文学の桎梏となってきたとして、その脱却を訴 えて強い反論に直面した。

 多数のアミーンの著作に加え、このような彼の論文ないしエッセイは700本 以上に上り、彼に関する論評約350本や幾多の関連の著作と共に、本研究の素 材として凡て渉猟した。大半は散逸されたそれら資料の収集だけでも、ままなら ない作業であった。

第1章 人生論

 日本人の人生を支配する観念は「恥」であり、欧米のそれは「原罪」であると ルース・ベネディクトが分析して以来久しいが、この観点は間違いなくそれぞれ の理解を前進させたと思われる。また日本人は人生を論ずることを好み、儒教的 な「道」が人生観の中心になっているとも言われる。この点アラブ人は人生論自 体を議論することは多くはない。

 ある民族がどのような人生観を持っているかを見ることは、その民族を理解す るための一つの良い方途でもあるが、アミーンの著作は恰好の事例を提供してい ると思われる。またそれは紆余曲折の多い中を生き抜くエジプト人にとり、夜道 を照らす一つの常夜灯の明かりでもあったであろう。その要点は次のように纏め られる。

 「我々は人生の特性を知るのみでその本質は把捉し難いので、人生に付き方法 論はあっても、それは何か、何故かと言った根本的な疑問には答えられない。ま たそれは遺伝と環境という二大要因によって規定されているが、これもアッラー の定めた法に基づいている。

 人生の物質・精神両面とも不滅であり、姿を変えて再生される。人間を形成す るのは肉体・知性それに心 ―感性であり霊感― の三要素だが、感性豊かに心 の嗜好を高めることに真の幸せが見出される。

 最高の目標は偉大な自然 ―文明の害から逃れさせ宗教心を育む― にも看取 される絶対美に対する感動であり、それへの依拠・服従である。そして何人にも 賦与されている宗教心を育み高めることにより、人生の意味と真の安寧が与えら れる。」

第2章 イスラーム論
 イスラーム復興の問題は大きく分けて、三方向から取り上げられた。

 第一には善良なムスリム育成の問題。幼児以来の教育の在り方、そして心の支 えになる教師と友人のあり方などに言及しつつも、どうすれば確保されるのか決 定的な要因は分からないと結ぶ。

 第二には科学他の近代文明と対峙されるようになっている宗教信仰の擁護論。 理性で推論する科学とは別の真実の世界があり、それは人間の持つ能力の一つで ある霊感により導かれる世界である。霊感をあえて定義すれば、稲妻のごとき瞬 時に閃く直感的エネルギーであるとされる。

 人は誰しも霊感の能力を持っているが、それを高めるための霊操に励むことも 重要である。霊感により得られる世界を覚知することは、天啓であるが、これを 言葉で表現することは難しい。霊感を働かせるためには、人の全感覚を稼動させ ることになるが、感情や感性の持つ力は大きく、その意味で神秘主義者のあり方 も注目した。

 第三にはイスラーム改革の諸点。『イスラームの暁』はアラブ・ムスリム自身 により明確にかつ近代史学の手法により、イスラームの誕生が説明されたと言う 意味で、大きな波紋を起こした。

 外的要因に影響されたと見るのは確かに伝統的な見地とは全く異なるが、かか る見解自体はそれなりに広く知られつつあったのが実態で、その意味でアミーン の書が革命的であったと見るのは正確ではないことを、本書で論証した。

 しかし初めてそのような見地が正式に提示されたことは変わりなく、この意味 で知的改革として位置付けられる。更にはシーア派との関係は現代社会で言えば 法律諸学派間の論争のようなものとして見なしうるとの立場から、歯に衣を着せ ぬ批判的論陣を時にスンナ派に対しても張り、様々な波紋を投げかけた。

 またムゥタジラ派は幾世紀に渉り疎んじられてきたが、その理性的な教義、改 革派的な姿勢に同調し、正面から著作で取り上げたことも、イスラーム認識の改 革であった。

 最後にムハンマド・アブドフとの関係が近いとされることがあるが、アミーン 自身はそのようなことは触れていない。ただ信仰に感情を多々導入したことは、 両者共通である。またアミーンはムスリム同胞団に強い関心を持ったが、政治行 動は戒め、それではどのような行動をムスリムとして取るべきかという疑問に答 えることはなかった点は、知識人としての弱味も示すことになった。

第3章 文明論

 アミーンは西洋文明を吸収する多くの機会には恵まれなかった。フランス語は 小学生の時学んだだけで、英語は26歳の時に学習開始(但し4年後には英文哲 学入門書をアラビア語に翻訳するまでになる)、またヨーロッパを初めて訪れた のは、彼がすでに45歳になってからであった。

 彼にとり西洋文明を学ぶ機会としては、書物を読破し、カイロ大学でヨー ロッパ人教師の講義を聴き、ヨーロッパから帰国した留学生や知識人と交わる他 なかった。

 彼の基礎的な教養はアズハルとイスラーム法学院で身につけたイスラーム諸学 であったことは明らかである。しかしアミーンは常に感情よりは理性を重視すべ しとして、公正さと論理的嗜好を重んじる姿勢で一貫し、近代西洋文明の重要な 要素である合理性や実証性を身につけていたと言えよう。

 この姿勢は彼の文明論でも堅持され、精神性に満ちた東洋文明を物質的な西洋 文明より高く評価しつつも、結論としては西洋か東洋かと言う二分論を越えた 「人間的文明」の創造を標榜した。その要点は次の通り纏められよう。

 「東洋と西洋は地理的区分ではなく、それぞれが持つ特長や固有の特質で区別 される。文明は一歩ずつ完成へ進むのではなく、時々の人間が欠如していると感 ずる側面を新たに満たすべく、次世代の文明が生み出される。精神面に欠陥のあ る西洋文明に変わり、人間的文明を希求する所以であるが、これは東洋がよく為 し得るであろう。」

 科学に基づきつつも、感性や人間の福利を重視する「人間的文明」の呼びかけ は、その独自性にもかかわらず、当時の民族主義に吹き荒れるアラブ世界とその 敵対性に警戒心を強めていた西欧世界の双方から葬り去られた。

 イスラームと西洋世界の関係が、共産主義世界崩壊後次の主要な抗争として新 しい光の下に注目されている現在、アミーンの文明論もエジプト知識人による貴 重な思想的産物として、改めて注目されてよい。

第4章 政治・社会論

 アミーンは、政治学はもとより、社会学や経済学の素地もなかったが、社会改 革の強い関心がこの分野の議論に駆り立てていた。政治は自然現象や宿命ではな く大いに人のなせる業であり、国民各自の政治的な覚醒が重要と訴えた。

 また民主主義を梃子にして専制・植民地主義を駆逐し国内の平等感の高揚を求 めたが、これは当時民主主義は、イスラームに初めから含まれているとする見解 が多く出されていたのに、結果的に対抗していたのである。

 歴史は因果関係の連鎖を読み取る作業であり、そこに道徳的な教訓を読み取ろ うとする勢いの強い伝統的なアプローチと明確に対峙した。人の権利よりは義務 を説くのが伝統的なあり方であったが、それを逆転し権利を語り、臣民の義務を 語るよりは政治指導者の批判論を展開した。

 また第二次大戦、アラブ統一問題、家庭生活のあり方などについても、イス ラームとは関係付けずに議論し、ナセルの軍事政権は早晩交替し正常な民主制に 復帰すべしと主張した。

 但しトルコの世俗化に付いては反対、イスラームを脱却することは考えられな いとした。ここにアミーンの「中間派」と評された理由がある。彼は常に宗教万 能に頼るのではなく、まず理性的な思惟と判断に基づくべしとしたが、他方で背 後の支柱はイスラーム以外ではありえなかった。

 この分野のアミーンの議論に対する反応は極めて微温的であったが、それにも かかわらず彼自身の熱意は相当なものであった。彼の主眼点は国民の啓蒙にあっ たことは確かで、その内容としてはイスラームとの関係付けではなく、逆に各自 の理性的思考に依拠する新たな政治・社会的ヴィジョンを訴えかけるところに あったと言えよう。

第5章 文学・言語論

 文学改革に関しても、アミーンは多くを残した。まず文学の真髄は、美の追求 であるとした上で、同時に時代の要求として修辞よりは意味・含蓄を重視すべき で、社会建設への貢献度も重要であると主張し、芸術のための芸術という議論に 反対する。

 そして古典文学からの遺産の刷新のため、散文に付いては用語、文章表現、 テーマの改革を提唱。しかし最も大きな反響が見られたのは、アラブ文化の華と されてきたイスラーム以前のジャーヒリーヤ詩批判であった。

 批判の要点はそれが形式、内容共に今日の要求を満たすものではなく、歴史的 にも長年むしろ桎梏となってきたので、それを大学の専門課程に限るべきで、ま た辞書も古典語だけ扱うものを別立てにすべきであるとした。

 全く新味のある詩作が見られなかったなどアミーンの論拠はかなり一面的な部 分もあり、ザキー・ムバーラクが四ヶ月間毎週に渉るアミーンの議論に個別に反 論したが、その内容がまた一方的、かつ侮辱的な表現も多々見られた。

 結局ムバーラクは居並ぶ文豪たちに諌められ、またアミーンの改革への意図は 理解されるとする読者の声も聞かれ、むしろムバーラクへの圧力が高まった。直 ちにアミーンの文学改革論が効果を齎したわけではないが、このような論争を経 て広く提起された論点は浸透して言ったといえる。

 文学批判についてアミーンは大学での講義を纏めたものを晩年出版したが、そ の中で倫理に支えられない文学はありえないとした。文学における美の追求から 社会的貢献度の問題に移り、最後は倫理観の強調をする彼の思考の変遷は、晩年 彼に思索全体を彩ることとなったイスラーム強調と軌を一にするものがある。

 なお言語改革について多すぎる同義語の問題、新造語の方法論、女性名詞は語 末のかたちで示されたものに限ること、動詞の中間音は凡て統一すべきことなど を提案。これに付いてのアラビア語アカデミーの正式検討はほぼ20年後に行わ れ、60年代初頭に具体的な検討結果が発表されるという、息の長い影響を与え ることになった。

結語

 各論の中で、各分野の議論の評価は済んでいるので、ここでは全体を通じての 事柄を二点取り上げる。

 初めにアミーンは従来、理性派、改革派、イスラーム重視としての保守派など と言われてきたが、加えて啓蒙家と言うべきであることが、判明、確認された。

 疾風怒涛の中で知的な闘争を展開したが、大いに論議を呼んだものはむしろ限 られている。『イスラームの暁』、シーア派との論争、ジャーヒリーヤ詩批判論 などがそれである。

 他方人生論、文明論、政治社会論はもとより、イスラーム論や文学論などで も、上記の諸点以外に付いては、静かな反応しか見られなかった。それを十分見 極めながら熱弁を続けたアミーンの最大の狙いは、復興のために国民が再起する こと、そのための啓蒙にあったのである。

 もちろん多岐に渉る議論の中には、矛盾と見られる点や議論の詰め方が不十分 で、所期の説得力を達成していない箇所も含まれる。また晩年の知的な寛容性の 減退と好ましい結論への焦慮と見られる面も在る。

 具体的には厳格なイスラームへの傾斜や倫理重視がより前面に出される部分も あったので、更に彼が将来に渉って論陣を張っていたとすれば、柔軟な啓蒙家の 一線を越えない保障はなかった。この程度の注釈付きではあるが、彼の情熱が啓 蒙にあったことは変わりない。

 次にアミーンの世界観を仮説として纏める。彼自身は整理して提示していない が、そのような全体の思考の枠組みを捉えることにより、一層彼の思索の位置と 方向が判明するからである。

 彼の持つ世界観としては、倫理・善が上に立ち、その下の二点に科学・真実と 芸術・美があるという三角構造を設定し、更にその三角構造の上に宗教信仰を置 く形になっていると見られる。

 倫理は宗教と理性の甘美な果実であり、倫理は芸術より上であると明言する。 そしていずれにおいても天賦の才能の働きを真髄とするも、相当の許容範囲があ り、従って凡人が排除されると言うことはない。常に進化することを信じて、各 自の弛まぬ努力が勧奨される。

 倫理上の徳目の中でアミーンは、知的活動も実践も通じて誠実さを最重要視 し、そして究極的には神との直な愛の関係樹立に凡てを賭けるという方向を見定 め、疑わず邁進できた。様々な高い要職への就任や相次ぐ表彰事とは別に、本当 の彼の人生の満足感は信仰に裏打ちされた人生の貫徹というところにあったので あろう。

 しかしこのような確信全体を包括的に鮮明に訴えなかったところから、国内外 において没後比較的速やかに印象が薄くなり、また評価も低いものになる傾向が 見られることもあった。

 理性と知性が強く前面に出されるがために、より感情に訴える者よりは反応が 微温的となる例は他にもあろう。しかしそのような感覚的な状況判断ではなく、 内容の総合的客観的な評価を本研究では心がけた。

 かかる視点からアミーンの果たした役割を同時代人に対比すると、人々の歩む べき方向を指し示した米国マーティン・ルーサー・キング牧師と、それを世界史 的な文明論の中で位置づける視座を提供した英国の歴史家アーノルド・トイン ビー教授の双璧を彷彿させるものがある。

付論

1.アフマド・アミーンの思想と日本の宗教事情

〔本書発行に際しての記念講演(7月15日,カイロ文化最高評議会)において アラビア語で発表され,その要旨はエジプト各紙に掲載された〕

 アミーンの質素で謙虚な生活態度と真面目一徹な性格は日本人好みだが、その ような人間類型がエジプト、アラブにいることは余り知られていない。またア ミーンがしばしば説いた通り、イスラーム信仰は霊感に導かれる心の問題であ り、それは過激な政治活動でもなければ法学、神学と言った学問そのものでもな い点は、日本では十分把握されていない。アミーンの遺産の中でもこの二点は、 日本との知的交流を進める上で、心しておくと良いのではないか。

2.国際的展望の中の宗教―イスラームの強靭性

 キリスト教の近代史は神の否定の連続であり、科学はその実証として発達し た。ダーウィンの進化論他、ニーチェ哲学では神は死んだと宣言した。連綿と続 く攻撃の下、キリスト教は宗教として基軸である絶対主との対峙よりは、イエス への敬愛と倫理道徳的な教えに比重を移してきた。

 他方仏教では、仏を信者に余りに近く親しみのあるものにしたことから、信仰 心の弛緩を招いたのではないか。座禅の姿は仏の姿であるとされ、称名のみで成 仏すると説かれる。

 この点イスラームでは、絶対主との関係はその創成期に噴出した霊感を通じた 熱気、畏怖そして敬愛という好ましい関係が維持されている。このことはアミー ンの著作を通じても確認される。ここにイスラームの持つ強靭性の源泉の一つが 潜んでいると考えてよいだろう。

(了)


(注) カイロ、エジプト文化省出版、2007年。294ページ。



執筆:アミーン水谷
アラブ イスラーム学院研究者

(2007年9月25日更新)



                

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