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私はアラブ世界にちょくちょく足を運んでいるものの、どうもマグレブの方とはあまり縁がない。単純に地理的条件において日本から遠いということがその要因の一つである。エジプト以西ではチュニジア・リビアに行ったことがあるだけだ。2月の北アフリカ、地中海沿いは天気も曇りがちで雨の日もしばしば。2000年のその頃、両国を訪れた。
日本からはまずチュニジアへ。格安のアエロフロート・ロシア航空を使ったのだが、チケットが5万円くらいでとても安く、またモスクワで乗り換えた飛行機がチュニス経由・サンパウロ行きという、まるで地球の裏側にまで飛んでいきそうなフライトだった。
さて、チュニジアだが、私が今まで訪れたことのある国の中でどうも印象が薄い。フランスの影響を多く受けているためか、アラブに来ている気があまりしなかった。しかも当時の私はアラビア語が全くわからなかった上、フランス語もダメ。おしゃべりな私がダンマリとした生活を送るというのはどうも違和感があったし、ましてや遺跡嫌いの身としてカルタゴの地を訪れても「ただの石コロ」という感想しか持たなかったくらいである。ただ旧市街のマディーナを歩き回っていた時などしょっちゅう道に迷っていたが、そこではむしろ好き好んで迷子になりその古い町並みを楽しんでいたものだ。
まあチュニジアはあくまで通過国に過ぎず、この時私が目指していたのはリビア。そもそもリビアに行ったという人の話も聞かないし、ガイドブックも見掛けない。そういった国には一体何があるのだろうかと好奇心を掻きたてられたものだった。この国では人との出会いに本当に助けられた。そして私の名前が「ハビーブ」であるのもここを訪れたからこそ、そうなのである。
リビアは入国したときから大変だった。ほとんどの役人はアラビア語しか話さず、入国カードもアラビア語のみの表記をされていた。なんとか英語のわかる人に書き方を教えてもらい入国。とりあえずは首都のタラブルス(トリポリ)を目指すしかなかった。国境を越えてすぐ、片言の英語を話すタクシードライバーと値段交渉し「セブンティーン」ディナールということになりタラブルスに向かったのだが、料金を払うときになって大モメ。私はセブンティーン、17だと解釈したのに、彼はアラビア語でいうところのサバイーンつまり70を主張するのだ。まったく腹立たしい勘違いである。結局根負けした私は70ディナール支払い、ドライバーは「マアッサラーマ」と上機嫌にその場を去っていく。そうして私は一人、タラブルスの町外れに残された。ガイドブックもなく、またそういったトラブルの後に見知らぬ街をさまようのはとても心細くほとんど半泣きの状態である。
ご丁寧なことにカダフィ大佐のポリシーからか看板のほとんどはアラビア語表記。その上英語もほとんど通用しない。となると宿を探すのも困難だということだ。陽は傾き、冷たい風が吹き抜けていく。しばらく歩き回った後、疲れ果て呆然と立ち尽くしていると、一人の女性に声を掛けられた。彼女の名前はザフラ。英語を話すことができるモロッコ人でチュニジア人の夫とすぐ傍にあるレストランで働いているという。それにしてもこの時はよっぽど惨めな雰囲気を醸し出していたのだろうか。彼女の私を見つめる瞳は哀れみに満ちていた。そのザフラに招かれシャイ・ビ・ナアナア(ミントティー)をいただいたのだが、それはそれは身も心も温めてくれる不思議な飲み物だった。ミントティーがモロッコの名物だというのはザフラに教えられて初めて知った。そして親切にも近所の安宿まで案内してくれて本当に助かったものだ。旅先ではいつも人の世話になりっぱなしである。
その後タラブルス滞在中はザフラの食堂に足を運ぶのが日課となり、あまり言葉は通じなかったものの寂しい思いをすることはなかった。ちなみに私の名前、ハビーブというのは彼女の夫の名前にちなんでつけたものである。この食堂は実に不思議な空間で、モロッコ人のザフラにチュニジア人のハビーブ、従業員はブルキナファソ人のヤコブ。客は地元リビア人にエジプシャン、スーダン人にチャド人、アルジェリア人など。時にはインド人や中国人も見掛けた。世界中どこにでも外国人が多く集まるところはあるけれど、リビアのうらぶれた安食堂がこんな風にごったになっているとは夢にも思っていなかった。
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