ウマイヤ朝の歴史
 

【カリフ ムアーウィヤの業績】
 

1− これまでは知られていなかった方法によって郵便事情を整備しました。イスラーム国家の都市と都市を繋ぐ道に幾つかの駅を設け、それぞれの場所(駅)に足の速い馬を用意しました。このようにしてイスラーム国家内の情報が非常に速く、また安全にカリフのもとに届くようになりました。
2− 「ディーワーン アルハーティム」をつくりました。ここにはカリフの出した命令が記録され保存されました。さらにこのディーワーンが写本され、原本には蝋による印が押されました。その後この命令はサハーバたちのもとへ送られていきました。
3− イスラーム国家の境界線に幾つもの砦を建設しました。とくにイスラーム国家北部には騎馬隊を派遣しました。また夏季・冬季の二期にわたってビザンティン帝国との国境沿いの前線の情報収集のための組織だった情報収集グループを結成させました。これらは「サワーイフ(夏季のグループ)」「シャワーティー(冬季のグループ)」と名づけられました。
4− 造船に力を注ぎ、特にイスラーム水軍を作りました。ムアーウィヤ時代にこれらの船の数は1700にまでのぼりました。
5− ビザンティン帝国、中央アジア、北アフリカにおいてイスラームによる開放を継続させました。

ムアーウィヤの死

ムアーウィヤは80歳でその生涯を閉じました。彼はヒジュラ暦60年のラジャブ月にダマスカスで亡くなり、ダマスカスで埋葬されました。彼のカリフ就任期間は20年間でした。

ムアーウィヤ死後のイスラーム国家諸地域

ムアーウィヤは亡くなる前、息子のヤズィードを次代カリフに任命しました。それに対し人々はそれを承認する誓約を結びましたが、アリーの息子のアルフサインとアブドゥッラーヒ ブン アッズバイルはその誓約を行いませんでした。クーファの民がアルフサインをカリフとする誓約を行うための書状を送った後、アルフサインはクーファへと向かいましたがヤズィード側のイラク総督のウバイドッラーヒ ブン ズィヤードは兵を送りアルフサインはカルバラーでその軍に遭遇しました。
結果、アルフサインは殉教し、またマッカではアブドゥッラーヒ ブン アッズバイルが兵をあげました。またウマイヤ朝に対抗する動きも各地に現れました。アルフサインの殉教はマッカとアルマディーナのヒジャーズ地方の人々とともにいたマッカのアブドゥッラーヒ ブン アッズバイルの蜂起を後押しする形となりました。またヤズィードのカリフ就任に反対するものたちもアッズバイルの蜂起を勢いづけました。

ヤズィードはアルマディーナを包囲し、占領しました。それからマッカに向かい同じくマッカを包囲しましたが、このときヤズィードが亡くなったためウマイヤ朝の軍は包囲をとりやめシャームへと戻ったのでした。

ヤズィードは亡くなる前に息子のムアーウィヤを次代カリフとして任命しましたが、当のムアーウィヤはそれを望んでいなかったためそれを放棄し、カリフ選出をシューラー(協議会)に委ねました。

ムアーウィヤのカリフ就任放棄によりシャーム地方には政治的空白が生まれました。これはイスラーム国家各地にアッズバイルをカリフとする誓約をする動きを促しました。
アッズバイルの支援者がシャーム地方にも増えてくるとウマイヤ家の者たちはヒジュラ暦64年のアルジャービヤ会議でマルワーン ブン アルハカムをカリフとする誓約を行いました。同年マルワーンはアッズバイルの支援者たちをマルジュ ラーヒトの戦いで破り、この戦いの後、ウマイヤ家支配下のシャーム地方へと戻っていきました。

同様にマルワーンはエジプトに軍を送り、エジプトを取り戻し、その民はマルワーンに忠誠を誓いました。この後マルワーンは自分の息子のアブドゥルマリク、そしてその後にアブドゥルアズィーズに次代カリフ譲渡を約束しました。

次回はカリフ アブドゥルマリク ブン マルワーン ブン アルハカムを皆さんに紹介しましょう…



筆者:リハーブ ザハラーン
アラブ イスラーム学院講師

 

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