ウマイヤ朝の歴史
 

【カリフ ウマルの主な功績の続き】
 

―イスラーム宣教面―

ウマルは二つの方法で人びとをイスラームへと呼びかけました。

1− 開放された土地の人々のうち、イスラームに改宗した者からのジズヤ(人頭税)を免除。これはその土地の多くの住民たちの改宗をもたらしました。役人の一人がウマルへ「改宗者からジズヤが免除されたおかげでハラージュ(地租税)の額が減少してしまいました。」と手紙を送るとウマルは彼に次のように答えました。

「アッラーはムハンマドを導く者として遣わしたのであって、税を取り立てる者として遣わしたのではない。」

2− クルアーンのアンナフル(蜜蜂)章125節の『英知と良い話し方で、(凡ての者を)あなたの主の道に招け。最善の態度でかれらと議論しなさい…』内容にのっとり、平和的方法で王や太守たちにイスラームを呼びかける手紙を送りました。
これによりシンド地方の幾人かの王がイスラームに改宗し、それにより彼らの民衆の多くが改宗しました。

3− 同様にウマルはイスラームの教えをよく理解している10名のタービイーンたちをアフリカへ派遣しました。これはその土地の民衆、またエチオピアやベルベルの人々にイスラームの教えとクルアーンと法学を教えるためでした。

―経済面―

カリフ ウマルは経済面に力を入れ、ウマイヤ国家の全域において乾量や重量を統一しました。農地を改良し、農民たちへ資金を貸し井戸を掘り、人びとを助けました。
同様にザカート(喜捨)に力を入れ、そのため財産家たちは自らザカートやサダカの支払いを急ぐようになりました。またウマルは役人たちに、奴隷・子供・大人・男も女もすべての者がラマダーン明けのザカートを払うように義務付けることを命じました。

ですから多くの役人たちは多くの地域に行きました。そしてその地域の富裕なものたちからサダカを受け取り、すぐにそれらをその地域の貧しい者たちへ分配しました。このザカート支払い義務を厳しく管理し、分配を急がせよく監視したことが効を成し、人々は裕福になり生活が容易くなりました。

人々の収入は増え、彼の統治下でザカートを受け取る権利のある者がいなくなったほどでした。
ヤヒヤー ブン サイードは言いました。「ウマル ブン アブドゥルアズィーズは、サダカを集めるために私をアフリカへ派遣し、私はその義務を果たしました。そしてそのサダカを分配するために貧しい者を探しましたが誰一人として貧しい者はいませんでした。私はザカートを受け取るべき人を見つけることが出来なかったのです。ウマルは人々を裕福にしたのでした。そこで私は奴隷たちを買い、彼らを解放し、その後をムスリムたちに任せました。」

またザイド ブン アルハッターブの息子は言いました。「ウマル ブン アブドゥルアズィーズは2年半統治しました。それはつまり30ヶ月でした。彼が亡くなった時、人々は大金を持って、「これを貧しい人にあげてください。」と言いながらそのザカートが支払われるべき人を探しましたが、誰一人貧しい者はいなかったのです。ウマル ブン アブドルルアズィーズは人々に富裕をもたらし、ラマダーン明けのザカート(ザカートルフィトル)だけでムスリムの貧者たちは裕福になることができました。」

―科学面―

ウマル ブン アブドルルアズィーズは科学・教育面にも力を入れ、クルアーンの暗誦を人々に奨励しました。また預言者のハディース(伝承)の編纂・収集にも力を入れました。

ウマルは知識の普及に力を入れ、モスクで知識を広めるよう手紙を書きました。その当時スンナは人々から忘れられていました。ある時ウマルは人々に対して次のように説法を行いました。「みなさん、医者は激しい痛みのために存在します。無知以上にひどい痛みはありません。罪以上に悪い病はありません。死以上におそれるものはありません。」

またウマルは宗教的な学問だけでなく、その他の学問にも力を入れ、特に人々が必要としている医学に関してはその教育に対して各地で力を入れました。

そしてウマルは学者たちに寛大に振る舞い、あらゆる土地において学者たちを探し、彼らを自分の会議の中で頼りにし・援助者としました。そして多くの学者たちをイスラームと知識の普及のために派遣し、彼らに報奨と糧を与えました。

今回はこの辺で話を止めておきましょう。次回は死の恐怖と5代目カリフ ウマルの死についてインシャーアッラーお話します。



筆者:リハーブ ザハラーン
アラブ イスラーム学院講師

 

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