ウマイヤ朝の歴史
 

【ウマイヤ朝のイスラーム開放】
 

イスラームの公正さと寛容さを広め、以前は不正と抑圧の中で暮らしていた民衆を救うために正統カリフたちが歩んだイスラームによる諸国の開放の動きをウマイヤ朝は継続しました。それはイスラームがクルアーンのアルアンビヤーウ章107節で『われは汝を全世界の慈悲となるべく遣わした。』と述べたように全世界への慈悲としてアッラーのもとからやってきたからでした。こうしてウマイヤ朝は人々の開放を継続しました。

1−コンスタンティノープル開放の試み

ウマイヤ朝は防御には絶好の海の位置にあり、堅固な城塞をもつビザンティン帝国の首都コンスタンティノープル開放を2回試みました。

1回目:ムアーウィヤ ブン アビー スフヤーン時代。この試みには何人かのサハーバたちも参加しました。たとえばコンスタンティノープル城塞包囲の最中殉教したアブー アイユーブ アルアンサーリーなどです。

2回目:軍隊がコンスタンティノープルを陸・海双方から包囲したカリフ スライマーン ブン アブドゥルマリク時代。しかしながらこの試みもまたカリフ スライマーン ブン アブドゥルマリクの死によって、その目的を実現させることは出来ませんでした。ローマ軍(ビザンティン)はイスラーム海軍崩壊のためにギリシャ風の大砲とコンスタンティノープルの戦略的位置と城塞を利用しました。

2−アフリカにおける諸地域開放

ムアーウィヤ ブン アビー スフヤーンがカリフに就任した時、彼は指揮官のウクバブン ナーフィウ アルファハリーをアフリカ州総督に任命しました。ウクバはモロッコとアフリカにおける開放に貢献しました。ウクバ ブン ナーフィウはイスラーム軍の本部とするため、そして総督の滞在地とするためカイラワーンの町を造りました。ウクバはカイラワーンからモロッコ開放のために進軍し、大西洋岸のタンジェに到着し、ローマ軍を打ち負かしました。少数の兵士だけを従えて彼がカイラワーンに戻る途中、ローマ軍はその好機をつかみ、ウクバに攻撃を仕掛けました。ウクバと彼の供のものたちは殉教し、モロッコの海岸にはローマの統治者が戻りました。

カリフ アブドゥルマリク ブン マルワーン時代にはカリフはハッサーン ブン アンヌウマーン アルガッサーニーを指揮官とした巨大な軍を派遣しました。イスラーム軍はローマ軍を打ち負かし、北アフリカとモロッコから彼らを駆逐しました。同様にベルベル人たちをイスラームに対し好意的にさせることに成功しました。それからカリフはムーサー イブン ナスィールをアフリカとモロッコの総督に任命しました。こうしてムスリムたちの支配者がその地位を確固たるものとし、ベルベル人たちをイスラームに傾倒させる試みは続きました。こうしてベルベルの部族はイスラームに入り、カリフの軍に加わりました。それからタンジェ・スィブテの町・モロッコ地方の残りの地域が開放されました。それによりムスリムたちはこれらの地域で定住するようになりました。

3−アンダルス(スペイン)開放

イスラーム軍がアフリカ北西海岸に到着した時、ムーサー イブン ナスィールはカリフアルワリード イブン アブドゥルマリクにアンダルス開放に関して意見を求めました。するとカリフは次のように言って同意しました。「侵攻地の状況をよく調べるまでは軍を守りなさい。ムスリムたちを非常に危険な海に近づけないようにしなさい。」ムーサー イブン ナスィールはアンダルス開放のためにターリク イブン ズィヤードをタンジェの総督として選びました。

ターリクはモロッコ地方に住むベルベル人の一部族の出身でその地域のイスラーム開放を通じてイスラーム教徒となりました。ターリクは7千人からなる軍の指揮官として後にジブラルタル海峡(もとはターリクの山というアラビア語に由来している)として知られた海峡をヒジュラ暦92年越え進みました。スペインの西ゴートの王ラズリークはイスラーム軍の侵攻を知り、大軍を準備しました。そこでターリクはムーサーに援軍を要請し、彼はターリクに5千人の兵士を送りました。双方の軍はラッカの谷の戦いで向き合いました。勝利はムスリム軍にもたらされ、西ゴート軍は散り散りに退散し、ラズリークは殺害されました。ターリクはスペインの都市の解放のため軍を進め、西ゴート国の首都であったトゥライティラを占領するにいたりました。そこでムーサー イブン ナスィールは彼を援助するために彼がスペインに到着するまで進行を停止するよう要請しました。

ムーサーは1万8千人の兵とともにアンダルス入りし、治安をよくし、ターリクが開放した土地の保護を行いました。同様にスペイン西部の諸都市を開放し、トゥライトゥラの近くを通過した一年後ターリクと出会いました。2人の指揮官はスペインの残りの地域を開放するための計画を立てました。そして北部へ向かいサルキスタを開放しました。そこからスペイン開放と敗北した西ゴート軍の残党放逐のために彼らは進行を続けました。そしてアンダルスの開放がすんだ後、カリフ アルワリード イブン アブドゥルマリクはムーサーとターリクをダマスカスへと召還しました。しかし2人はカリフ アルワリードの死後ダマスカスに到着しました。ムーサーはヒジュラ暦97年ハッジに行く途中で亡くなりました。

次回はウマイヤ朝の東方地域開放についてお話していきましょう。


筆者:リハーブ ザハラーン
アラブ イスラーム学院講師

 

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