アラブを見つめて
 

【開かれた扉】


「すべての美徳は、憎むこともできる状況において愛する人や、出し惜しむこと もできる状況において差し出す人や、つまずいた人に手を差し伸べることなく自 分の道を進むこともできる状況で手を差し伸べる人にこそ、属するものであ る。」

ミハエル・ナイーマ


 真の自由についての認識は、自由が意味する真の意識から出立していなければ なりません。それは、他者に敵対したり、他者を無視したり、排除したり、ま た、偉力並びないアッラーが与えられた他者の当然の権利を奪ったりすること を、拒むものでなければならないのです。そして、安全に暮らし、平和の中で自 由を享受する正当な権利は、たとえ降服とかあきらめと呼ぶ人々がいたとして も、それは、平和的表現の枠を出てはならないものであり、また、より良い現実 を求めてなされる議論の域を超えてはならないものです。

 人には、自由に夢見たり、選択したり、考えたり、思い通りに表現する権利が あります。人間性を奪われたり、意見の違いによって否定されたり、攻撃を仕向 けられたり、受け入れがたい団体に組み込まれたり、消すことのできない烙印を 押されたり、自分にとって明白でない考えに基づいて管理されたりすることな く。

 思想的な締め付けを受けたり、独自の考えを反故にされたり、迷える子供のよ うに常に指示を受けたりすることによって、人は、道を切り開く方法を知る機会 を失ってしまいます。そのような他者への絶対的包囲は、一部の人々の許で、自 由の意味を形成します。しかし実際には、自由とは他者の自由との接触を拒むも のであり、どんな人の自由も、他者の自由の限界において、その領域は終わるも のなのです。

 しかし、真の自由とは相容れない現在の状況を、誰が理解し、解読することが できるのでしょうか? 真の自由の意味についての意識を、他者への尊重や、他 者への理解や、異なる意見との対話と両立させることができるのは、一体誰なの でしょうか? 公然と他者の権利を侵害する今の状況や、他者を支配者に属する 枠の中に組み込もうとし続ける行為を、一体誰が改正するのでしょうか? 公然 と自由を禁じる人々を清算できるのは誰なのでしょうか?

 指揮するのではなく、常に指揮される世代の形成は、内なる敵との対決におい ても既に失敗に帰しています。それなのに、いかにして外敵と対決することなど できるというのでしょう? 私たちの多くの事柄が、あらゆる出来事において強 く結束する自由の敵たちの足場を固めさせているのです。

 他者の自由を奪うということは、要するに、社会的な停滞や喪失を意味してい ます。そしてそれは時に意図的に、また多くの場合意図することなく、他者の価 値を奪うことなのです。自由の敵たちは、自分たちの任務においてとても有能で あり、決定的な力によって優越性を持つ人々のように思えます。彼らのイメージ は、すべての人々の許でどんな立場よりも明確なものです。彼らは、自由という 言葉の前で立ち止まったり、基本的な問題ととらえて多くを語ったりはしないの です。彼らにとって他者の存在とは、個人レベルにおいても階級レベルにおいて も、一体何を意味しているのでしょうか?

 自由の敵にとって他者の存在とは、単にある社会構成員であり、利益に反する 場合には、声を上げてはならない存在です。反対する「他者」は拒絶し、また無 視しなければならず、もしも必要に迫られたり、あるいは慣わしを打破するよう に迫られたならば、対峙や裁きの機会を与えずに対話をします。

 しかし、「他者」は自由の敵が名づける自由の意味を充分にわかっているので す。彼らにより良い安全と安定と人生の享受をもたらす形で、他者の自由や考え を凍結するやり方に頼る彼らの自由の意味を。


筆者:ナジュワ ハーシム
サウジアラビア女性作家 

(2007年6月5日更新)

                

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