砂漠の酷暑が多少とも和らいだ1933年9月、ソーカルの地質技師たちはバハレインからダウ船でジュベイルに到着、技術顧問トウィッチェルも加わってただちにジュベイル南方にある丘ジュベイル・バッリの周辺を調査した。続いて、現在ダハラーンのキング・ファハド石油鉱物大学が建っている高台、ジャバル・ダハラーンを調査した。このジャバル・ダハラーンこそは、バハレインで油田を掘り当てたソーカルやバプコの石油技師たちが毎日遠望しつつ油層の存在を確信していた高台であった。バハレインから海を隔てて50キロの西方に望まれる、黄色の延々と続く細い線がアラビア半島の海岸線であった。夕暮れ時には、その線上に盛り上がって見える台地が落日に映え、典型的な背斜構造のシルエットを浮かび上がらせるのであった。
背斜構造とは、堆積当時水平であった地層が地殻変動によって強い圧力を受けると波状に曲がり(この現象を褶曲という)、山の部分と谷の部分ができるが、この山の部分すなわち伏せた椀のような形の部分をいう。谷の部分は向斜と呼ばれる。石油は背斜構造の内部で、頁岩など石油を通さない地層にはさまれた、孔隙性のある砂岩や石灰岩の層内に貯留される。小島バハレインで働く油田技術者にとって、無限の広がりを見せるアラビア半島にある、この背斜構造はまさに垂涎の的であった。調査の結果、ダハラーン一帯にかなり広範な油層が存在する可能性ありとの結論に達し、この背斜構造をダンマーム・ドームと呼ぶこととなった。
地質調査には自動車を駆使する一方で飛行機の使用許可も申請した。自動車は、英国がエジプトでの軍用に開発したサンドタイヤを着けて、砂漠を移動した。このタイヤは砂の中に埋もれないよう大型で、柔らかく広がるように空気圧を低めにして使用する。ラクダの足の裏の肉が砂漠に適応した結果、座布団のように厚く面積も広くなっていることからヒントを得て製造されたもので、このタイヤのお陰で、無線装置や発電装置を搭載したトラック、飲料水のタンクローリー、厨房や冷蔵トラック、実験室や空調つき居住を牽引したトレーラーなどの大型車がコンボイを組んで、広漠たる「虚無の地域」ルブウルハーリーの真っただ中を移動して調査することができた。
1934年3月、飛行機の使用許可が下りて空からの調査が開始されると、上空と地上との無線交信によって調査の精度は密となり、範囲も大幅に拡大し、作業能率も著しく向上した。陸空の連携プレーは、陸上のチームが土を掘って地上に大きな矢印を描き、それにガソリンを撒いて燃やすと黒いマークが残る。上空からこの矢印にしたがって飛行しながら写真撮影するという具合に行なわれた。
調査の目的はアラビア半島の地層の褶曲の様子を調べ、背斜構造を探すことにあった。褶曲そのものは珍しいものではないが、砂漠では褶曲があっても、往々にして新しい平らな地層や砂で覆われており、発見がなかなか難しい。ダンマーム・ドームと名付けられた背斜構造は、幸いにもダハラーンの高台が目印になり、その下部にバハレイン層と呼ばれる含油層がバハレインから拡がって存在することがわかったが、この含油層がどの範囲に広がっているのかが、技術スタッフの関心の的であった。通常、褶曲した地層が下降する場合はどこかで再び上昇するので、技術陣はこのバハレイン層が地表に露頭するとすれば、それはリヤード近辺であろうと予測していた。ところがリヤードは利権区域の外にあり、調査を許されていなかった。ともかく地質技師にとってはバハレイン層の拡がりを確定する目安として、その上に横たわるキャップ・ロックという岩石層を見付けることが先決であった。技師たちはのちに、しかも偶然に、バハレイン層がリヤードの近くまで伸びていることを決定づける大発見をするのである。
ソーカルは操業会社カソック(California Arabian Standard Oil Co.:略称Casoc)を設立してこれにサウディアラビアの利権を譲渡した。このカソックがアラムコ(Arabian American Oil Co.:略称Aramco)の前進である。1935年始め、第1号井掘削の位置が定められ、同年4月、掘削が開始された。フローテストの結果この油井は日産100バレルの出油能力しかないことが判明した。アメリカ国内で日産100バレルなら十分に採算のとれる油井であるが、遠く離れたサウディアラビアでこの量は商業生産量と呼ぶには程遠い。結局この油井は、他の油井を掘削する際の動力源や現場での生活燃料として、浅層からガスを取るガス井として仕上げられた。1936年2月に掘削の始まった第2号井は最初は日産3,840バレルを示したが、たちまち石油よりも水の方が多量に出てきたので封鎖された。続いて掘削された4本もすべて空井戸であった。カソックのスタッフに焦りが見え始めた。1936年12月、捲土重来を期して第7号井の掘削が始まった。作業は逸泥や崩落、ビットの坑内スタックなどトラブルの連続で、10ヶ月を経過しても3,300フィートしか掘進できず油兆もなかった。第7号井も空井戸として放棄されようとしていた。
転載:「アブドルアジーズ王の生涯」
日本サウディアラビア協会出版
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