イスラーム伝播に拍車 製紙法の西伝

—西暦751年タラスの戦いで唐兵捕虜から—
 イスラーム世界が東西に拡大し、大量のクルアーン(コーラン)が必要となったとき、時宜を得て中国から製紙法が伝来したのは、歴史の必然であったのか偶然であったのか、いずれにせよ製紙法の伝来と紙の流通はイスラームの伝播に大きく貢献しました。

 戦争の結果、技術や文化が伝達されることは歴史の皮肉です。製紙法が中国からイスラーム世界に伝わり、さらに西方世界に伝わったのはその好例です。しかもそれはその後の世界を劇的に変化させる大事件でした。

 それまで使われていた、竹や木の板、粘土板、動物の骨、エジプト発祥のパピスルのほか、布、羊皮紙など、書写、保存、移動が簡便でない材料に比べてはるかに便利な紙の出現は、情報の量を急激に増やし、技術や文化の伝達を容易にしました。その後に出現した印刷術の発達はさらにこれを増幅しました。

 西暦622年、マッカ(メッカ)に興ったイスラームは、その明快な教えのゆえに多くの人々の共感を得、東西の広範な地域にわたるイスラーム世界を形成していきました。東方では8世紀初めにはサマルカンドにまで達し、西域での覇権をねらう唐との衝突は不可避でした。

 遂に751年、双方は中央アジアはタラス河畔のタラス(現在のキルギス共和国北西端)において交戦します。この「タラスの戦い」で高仙芝(こうせんし)将軍の率いる唐軍は大敗、以後、漢民族の支配が中央アジアに及ぶことはなく、ムスリム軍はここに大きな地歩を固めました。

 751年といえば、日本では710年から784年までの奈良時代の中期にあたり、聖武天皇の天平年間を中心に天平文化が栄えた頃です。唐のみならず西域からの文物が到来し、天平文化はこれらに心酔した貴族階級の文化でした。今日でも私たちは正倉院御物として天平の貴族文化を垣間見ることができます。

 他方、イスラーム世界ではダマスカスのウマイヤ王朝を滅ぼしたアッバース王朝が支配権を握り、アッバース朝の徹底的討伐作戦を辛うじて逃れたウマイヤ王朝のプリンスはイベリア半島のコルドバに「後ウマイヤ朝」を興します。

 さて、タラスの戦いに大敗した唐軍の兵士はムスリム軍の捕虜となります。多数の捕虜の中には、例えば家屋建築の心得のある者、陶器を作る者、木工に秀でた者など、手に職を持った者がおり、その中に紙の作り方に通じた者がいました。

 紙といっても現在の私たちが思い浮かべるような紙からは程遠いもので、近頃の手作り講座などで牛乳パックから作るザラザラした葉書を想像すれば分かりやすいでしょう。その頃の‘紙’は‘ぼろ’を粉砕して水に溶かし、これを漉いて乾燥させたもので、使い古した雑巾が乾いたようなゴワゴワした繊維の板のようなものでした。

 実際、現存する最古のクルアーン(コーラン)の一つとしてウズベキスタン共和国のタシケントに保存されるクルアーンは鹿革に書かれ、それが粗い繊維質の‘紙’で裏打ちされています。古来の書写材料であった獣皮と、新来の紙とが共存する過渡期の証人です。

 ムスリムの新領土となった中央アジアにイスラームを布教するためには大量のクルアーンが必要でした。ムスリム指導者たちは羊皮紙に比べて安価で量産も可能な紙に着目し、西暦757年頃サマルカンドに製紙工房を建てて紙とクルアーンの量産に着手します。

 一方、イスラーム世界の西方への拡大に対応するため、795年にはバグダードにも製紙工場が建てられてクルアーンの需要増に応えました。その後、カイロ、シチリア、モロッコ、コルドバなどにも製紙工場が建てられて、イスラーム文化は黄金時代に入っていきました。



転載:「日本サウディアラビア協会報」
No.213 March2004

(2007年11月30日更新)













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